B社編

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長い前口上――ひとつの別離と屈折した復讐

 HMを辞めた後、私はしばらく就職しなかった。HMを辞めるのとちょうど同じ頃、恋人と別れた。別離は誰にも辛いものだろう。だが、それは私にとって、単なる別離ではなかった。自分の信じてきたものに幻滅するような出来事であった(結果から言うなら幻滅して良かったのであるが)。それからなかなか立ち直れなくて、どこにも勤まらなかった。

 大学を卒業した年の春、私は、当時付きあっていたB子(TVの「電波少年」で「人は占いだけで幸せになれるか」とかいうフザケタ企画があるが、あれに出てくる年長の方の女性の顔がB子によく似ている)とある講座に通い始めることにした。講座を見つけたのは私で、B子は私が決めたところならどこでも一緒に行くと言った。

 ところが、B子の方が、その講座に急速にのめり込んでしまった。会社を辞めて弟子入りするとまで言いだした。その道に打ち込むために「女(であること)を捨てるから」私とはもう付き合えないと宣告した。その時は、泣きながら話していた。

 そして、彼女は講座の先生に弟子入りした。私は自分が置いてけ堀を喰らったかのような劣等感と、それまでの読書(いわゆる精神世界の)が自分の心理状態に対してなんら効用を持ちえないことへの強烈な幻滅を感じた。「何の役にも立たないじゃないか」と。(今、思えば、本が悪いんじゃなくて、役に立てなかった私が悪いんですが)

 それからしばらくして、彼女がいうところの修行が進むと、哀れむような目で私に「あなたと私はもう意識レベルが違うの」と言った。

 一緒の空間にいるのさえ辛くなって、私はその講座を辞めた。

B子と私

 その講座の先生の目上に当たる人が、同じ頃、私のところに居候していたことがある。その人は落ち込んでいる私に、「あのさ、リウカくん、あの二人は付き合っているんだよ」と告げた。「見損なった」、二人のどちらに言うともなく、その時、私の胸から湧いて出た一言がそれであった。弟子だ師匠だ修行だと言っていて、そのザマは何だと私は落ち込みながら怒っていた。彼女が最初からそうだったとは思わない。本気で修行に打ち込もうと思っていたに違いない。

 仕事を辞めると収入がなくなるから、とB子は、恋人であることは辞めるが、家事をするからアパートに同居させて欲しいと私に言った(恋人だった人間が家に同居していて、単なる家政婦と見なすことにあなたは耐えられるだろうか)。私は彼女の提案を拒絶した。

 彼女が女であることを捨ててまで修行とやらに打ち込もうとしていたのに、恋愛関係になってしまったということは、師匠の資質の問題になるのだろうが、そもそもその先生を見つけてきたのは私なのである。私が見つけなければ、彼女はその先生と出会わなかったろう。これがまた私を嘖んだ。その否定的感情の連鎖は、探究という行為(私が人生に求めていたもの)それ自体を灰色に覆った。

 別離から9ヵ月。ようやく心理状態も回復した私は、その先生が言っていたことが本当かどうか確かめようと思った。彼が得意げに語っていた情報の数々が本当なのか確かめてやる。そして、その分野と関係のある専門誌を出しているB社の面接を私は受けたのであった。

 

■B社に面接に行ったが、その後、何も連絡がなく、何度か問い合わせたところ、電話ではなく手紙が届いた。私の能力やキャリアに応じたポストと待遇を検討中で3ヵ月後から出社してほしいと書いてあった。3ヵ月後からとはまた非常識な話だと思ったが、そこに就職したかったので、待つことにする。3カ月間の予定を立てた頃に、すぐに出社するように言われた。というのは実は私とてんびんにかけて採用した人が1日で辞めてしまったからだと入社してから知った。で、前の会社での給料を質問されることなく、月給15万円となっていた(HMでは25万円ぐらいもらっていた)。能力やキャリアの何を検討したのか(ちなみに、四大卒の人間は当時、社長と私だけだった)。

■そこに行けば分かるだろうと思って飛び込むと全然そうではないということが私の人生では幾つもあった。今では、これは私の人生の一つのパターンだと認識している。マルチメディアが知りたいと思って入社したHM社、科学と芸術のあわいが知りたくて参加したワークショップ、そしてこのB社。B社の社内に分野の専門知識を持っている人間は一人しかいなかった。しかも、この一人は、まったく社会常識がない人で、私が入社してすぐにクビになった。

■何でクビになったかというと、B社が請負でやっている仕事の記事中で皇族の名前をその彼は取り違えたのであった。社長は方々に土下座周りをしていたが、彼はまったく意に介していなかった。「間違えたって言ったって、別にてんぷくトリオと間違えたわけじゃなし、大したことないじゃん」と彼。新聞社ならすぐにクビだよ、と私は忠告したが、やはり意に介さなかった。反省すれば残れたのだろうが、全く反省する色もなかったので、クビになった。というわけで分野の知識を持っている人間は社内に一人もいなくなってしまった。

■実際上、編集長のような役割をしていた先輩社員も辞めてしまい、私は入社6ヵ月で編集部最古参になってしまった。ちなみに私が在籍していた3年間に退社した正社員のうち円満退社したのは、この先輩だけだった。

■ある日、読者から記事についての問い合わせの電話があった。言及されている資料はどこに行ったら手に入るのかと尋ねられた。すぐに答えられなくて連絡先をメモにとる。どこかで見た名前だなと思ったらB子と師匠弟子(ゴッコ)をした先生であった。すぐさま電話した。

「先程電話をいただきましたB社の者です。……御無沙汰してますね、リウカです」

「? な、なんでキミがそこに居るんだよ?」

 私がB社に勤めていることがようやく飲み込めたら、私が入社する前からB社の刊行物を読んでいるのだということを彼はしきりに強調した。そんなことは私だって知っている。知っているから、ここを選んだのだ。彼が欲しいという資料をコピーして送ったが、礼の一つもなかった。

 当初の目的であった、彼が得意げに語っていた情報の信憑性の確認の結果は、その殆どが根拠のないもの、あるいは誤りであることが知れた。その時、私の中で一つの復讐が終わったのだが、同時に、私が彼をB子に引き合わせたことでB子は幸せになったのか、不幸になったのか考えた。結論は出なかった。

(ある時、引っ越した先の街で、先生とB子が向こうから並んで歩いてくるのに出くわしたことがあった。「やぁ、こんにちは」と言った私を二人は睨むだけで何も言わずに通り過ぎていった。恋人としては二人はうまくいったのかもしれない。修行は知らないが)

■B社の社長は、ある会社(F社としよう)で編集長を務めるも、編集部一同から「アイツが辞めないなら、全員辞める」とF社の社長へ直訴され、退社を余儀なくされたという過去を持つ。分かりやすく言えば、イヤな性格なのであった。一つは実務上のコネや人脈、もう一つはF社への復讐だったのではないかと私は推測するのだが、自分で会社を興したB社の社長は、F社の扱っていたその分野に何の興味もないのに、似たような領域で専門誌を創刊した。他にもっと儲かるものがあるなら、すぐにでも止めるとハッキリ言っていた。

■ある時、私の基本給が何の説明もなく下がっていたことがあった。間違いではないかと社長に質問したら、「こう言ったら何だけど、適当だから」との返答を受ける。

社長は新し物好きでマルチメディア事業に進出したいと言うので、HM社の時の上司のN宮さんに来社してもらうことにした(N宮さんは自分で会社を興していた)。N宮さんは手ぶらで来てもしょうがないのでCD−ROMを1タイトル作るのにかかる標準的な見積もりを持ってきたが、その額が数百万だったのを見て、とっとと帰ってもらい、「こんなもん、30万円ぐらいありゃできるんだよ」と社長は知りもしないのに怒った。ちなみに30万円ではプレス用の空のディスクも買えるかどうかである。結局、マルチメディア事業には進出しなかった。

自分がまだしてもいない事業についてとくとくと得意げに語ることが結構あった。ダイヤルQ2には大きな可能性がありますよ、これからはマルチメディアですよ、Macはこんなに凄いんですよ、とか。

■誌面でイラスト作成が必要になったが、それまで会社の仕事でイラストレーターを起用したことがなかったので、友人のイラストレーターに来社してもらう。仕事の内容の説明を受けた後、その友人がギャラを質問したら、途端に社長は機嫌が悪くなり、お茶を濁してかえってもらった後、「初対面で金の話をするとは何と失礼な奴だ」と怒った。

 また、社員採用の面接などでも給料の質問をする人間は避ける習慣を社長は持っていた。そもそも仕事の内容だって説明しないのだから。なお、1日で辞めた人間も複数いるし、1ヵ月以内に辞めた人となると多数に上る。辞めた本人に問題があった場合もあるが、条件を説明しなかったり、決めなかったことが原因の一端になっていたとは言える。

■専門誌であるのに、採用において社長は分野に詳しい人間を避けた。詳しくない方が良い、というぐらいの態度であった。社長自身はその分野に興味がないので、彼の知識は十年一日である。詳しい人間を雇ったら、扱いづらくなると思っていたのだろう。私だって、2年もいれば、それなりには知識はついた。ある時の企画で、甲と乙の両者を並べて論じるというものがあったが、私からすると、両者は全然同列に扱えるものではなかったので、意見したところ、「リウカくん、君は先生(執筆者)に好き嫌いがあるだろう。私には好き嫌いはないんだよ。だから、どの先生とも等距離に居られる」と宣う。分野について知らないで居続けることによって、その等距離は確保されていたわけだ。

B社とは全然関係ないのだが、ある時、電車に貼ってあった絵の即売会の公告で「現代美術の三巨匠――ピカソ、ウォーホール、ヒロ・ヤマガタ」というのを見つけて、あんぐりしたことがある。この座りの悪い段差のような並び。社長の言う等距離とはこれに近い。

■社長は基本的にものごとを明確にするのを好まない。自分に都合の良い解釈を許す不明確な言辞を好んだ。入社してすぐの社員が来なくなってしまったときにも、こちらは「彼も辞めたか」と思っているのに、どうもしばらく休むようだ、などと平気で嘘を言った。もちろん、彼は二度と出社しなかった。

 刊行物の一つに、その分野では割と著名な人物を「特別編集者」なる待遇で迎え入れた。社長は「特別編集者」なる役職がいかなる権限・責務を持つかは事前には決めなかった。この造語である役職がいかなるものであるかの質問を受けたときも明言を避けた。責任編集人のように思い込んでいたその人物が誌面を仕切り始めたら、悪口雑言をその人物へファクスで送って関係を途絶した。名前だけ貸してもらって儲けさせてもらいたかったようだ。

 ある時、東京駅の構内で、その元「特別編集人」にばったり会った。その件で悪いのは社長であるし、雑誌を続けていく上で関係を修復した方が良いわけで、私は失礼を詫びて、またよろしくと言った。会社に戻って、起きたことを社長に話すと「そういえば、そんな人もいたな」とだけ社長はコメントした。

■マイナーな分野というのは、金を払ってでも自分の意見を主張したいという人物が少なからずいる。それが故に自費出版というものが成り立つわけだ。社長は、原稿を依頼しているというより、載せてやってるんだぞという考えでいたようで、原稿料は雀の涙のような額だった。原稿料の諍いは色んな人とやっていた。約束しておいて払わないということも何度もあった。それどころか、原稿料タダという条件で執筆者を探し、実際、それで本を作ってしまったりした。一度はタダで作れたのだからというのは、社長にとってあまり良い経験にはならなかったと私は思う。他の分野にちょっかいを出し始めたとき、「なんで時間を割いて、あんたのところに載せてもらわなけりゃならないの」という対応をされてカルチャー・ショックを受けたようだった

■入社当時、「うちもフレックス・タイムみたいなものだから」と言っていたが、コアタイムを設けるでもなし、なしくずしに出勤時刻が決まっていった。次から次へと仕事があるので、毎晩11時ぐらいまで仕事をしていたが、社長は「私が残業しろ、と一度でも言ったことがあるか」と睨むように言う。タイムカードもないのだから、残業代も何もない。すべてはどんぶり勘定だった。

 ある時、終電がなくなった後まで仕事をした女性社員が、翌朝、そーっと社長の机にタクシー代の領収証を載せたことがあった。出勤してきた社長は、それを一瞥するとためらうことなく、丸めてごみ箱に捨てた。その女性社員は「ショック〜」と泣いていた。

■新雑誌2誌創刊とそれまで季刊だった雑誌が隔月刊になったことにより仕事量が倍になったにも拘わらず給料が変わらないので私が質問したところ「印刷所への支払いだって倍になっているんだから給料を上げられるわけがないじゃないか」と社長は返答した。

■ある有名人に取材に行くのに際し、社員のY本に「謝礼はこれで、その場で領収証をもらってこい」と3千円を手渡す。ちなみに取材は相手の自宅へお邪魔してのものであった。

■猜疑心の塊のような所が社長にはあるのに、一方でなんとも安易なこともした。例えば、私は採用されたとき、出社する前に地方の取材へ行くように指示された。カメラバッグ一式を預けて、これはこうなどと説明する社長を見て、「この人、出社しての仕事ぶりも見ていない人間をいきなり出張の取材にいかせるなんて、何か変なの」と思った。ずっといる社員のことを信用しないくせに、初めて会う人との話には無邪気に意気投合したりということも何度もあった(たいていすぐ後で喧嘩別れするのだよ)。会ったばっかりの中国人に、使えもしない素材を掴まされて、大金をすったことがあった。社員に事情を説明するのでもなく、出費があったからという理由で、その直後のボーナスは前より少なくなっていた。

■さすがに付き合いきれなくなって退職を考えた際、付き合いきれないことを理由として言ったら角が立つので、給料が安すぎるということを理由にした。日を改めて話し合いたいと社長が言うので、金額を提示して引き留めるのかと思ったら、話し合い当日には2年ぐらい前の「給与統計」云々という分厚い本を広げて、「君の給与は安くない。何を根拠に安いと言っているのか」と一席ぶった。その統計表の見方がよく判らないので私が素朴に質問したら「私も見方はよく知らないんだ」と社長はしどろもどろになった。

■会社では送別会を開いてくれなかったが、出入りの業者の人が、送別会を開いてくれた。その業者は私からの仕事が欲しくて送別会を開いてやったに違いないと社長は愚痴ることしきりだったと残った社員から聞いた。

■会社にいる間はよく働いた。3年いたけれど、有給休暇なんて一度もとったことがない。現在まで3箇所、会社勤めしているが、一度もとったことがない。B社では、休日出勤の代休も、もう幾つだか分からないぐらいの日数になっていたので、最後の1ヵ月は出勤しないで給料をもらった。さすがに社長も素直に私の代休がゆうに1ヵ月を超えるものであったことを認めてくれた。


■担当していた仕事の中には愛着のあるものもあったので、退職後もフリーランスの立場で仕事をもらう約束をしたが、何も連絡がないので会社に訪ねて行ったら「君は使わないことにした」と言われた

2年半ぶりに東京に帰ってきた翌日、新宿のヨドバシカメラで社長にばったり再会した。「おう、久しぶり」と声をかけてくれた。フリーでやるなら何か頼めるかも知れないから連絡先を知らせてくれ、というので知らせたが、結局1年経っても何の連絡もないですね。同じ日に、隣町でB社にいたY本に会った。権威志向の強い彼は、B社などという弱小企業で自分のキャリアを終えるつもりがなくて転職したのだが、転職先が倒産してしまって仕事を探しているところであった。

●負の悪人、Tのこと●

 Tという人間が社内に居た。一見、愛くるしい感じのぽっちゃり男なのだが、私が実際に出会った男の中で唯一、殺意を抱いた人間である。彼はB社に初めて採用された社員だ(そして今もいる)。つまり、社内の最古参なのである。本好きである本人は編集部を希望したのだが、まったく適性を欠いていたので、営業部に配属された。

 とはいえ、営業の適性もなかった。というか、ただでさえ、飲み込みの悪い人間なのに、社長は一日一緒に歩いて仕事内容を説明した後、ほったらかしにしたらしい。彼は「営業に行ってきます」と会社を出ていくが、どこをどう回ってきたのか、何の報告をする必要もなかった。ある日を境に報告を社長が課したら、困り果てていた。実は単に本屋を回っているだけだったのである。

 どんなアルバイトも2ヵ月在籍すれば、Tより仕事ができた。アルバイトに仕切られる社内最古参。アルバイトとべらべらおしゃべりをしていて、「あれやれ、これやれ、って社長が言うし、おまけに営業に行ってこいって言うんだよ」と呑ん気に言うのである。

 社長がTに頼んだ仕事が、すんなり仕上がったことはほとんどなかった。それだけでなく、多大な損失を与えたことも一度ではなかった。例えば、請負で作った印刷物で定価を誤って指定し、刷り上がった数千枚をすべて破棄処分にせざるえなかったとか。

 書店に納品を催促されても応対がいつもとんちんかんで、編集部が迷惑した。呆れるような話だが、営業部の人間は電話の応対が悪いということで、品物の注文を含めてすべての電話は編集部がとっていた。夜中の11時30分に品物の注文してくる客も一人ではなかった。

 休日出勤して一人で仕事をしていたら、昨日までに絶対届けるといって品物が届かないではないかと書店から激怒の電話が来たことがあった。今日は会社は休みで、営業の人間はいませんと答えたが、お前がいるだろうと言われ、遠くまで電車を乗り継いで、私がその書店に品物を届けた。出来事を社長に報告し、社長がTに詰問したが、Tの事情説明は、全部、自分のあずかり知らない不可抗力のせいというものであった。

 読者プレゼント用に、他の会社から提供されたものが見当たらなくなったことがあった。当時のB社はマンションの一室である。物が紛れるような場所はほとんどない。彼は提供された、と言うのであるが、私を含め社内の誰もそれを見た覚えがなかった。先方に問いあわせすると、提供したと返答される。板挟みにあった彼は何も言わずに、社員の机の引き出しを一つ一つ開け始めた。

「何してるんですか?」

「いや、紛れ込んでいるかと思って」

 そんなことあるわけない、(実際出てこなかったし、引き出しにあったら誰でも気づくほどの大きさのはずなのだ)と強弁した私に対して、Tは――

「もしかして、もう抽選して当選者に送ったんじゃないかなぁ」と唖然とするようなこと言ってのけた。

 ある時期、アルバイトにOさんという20歳の女の子が来ていた。細身で華奢だが、グラマラス、そして深い瞳を持った子だった。色が白くて黒髪の長い、まるで雪女のような子だった。実際、東北の出身だった。東北の田舎町で、高校の後、彼女は水商売をして金を作り、自分を捨てた母親を探しに東京に来たのだという。その母親と再会し、愛憎劇を繰り広げたようだった。その母親と取っ組み合いの喧嘩の末、二人して泣きながら朝まで、アルコールに浸ったという話を聞いたとき、私とは生きている時代が違うようにさえ思えた。彼女はB社のアルバイトの後、夜は夜で、自宅近くの居酒屋でアルバイトして一生懸命稼いでいた。そこの厨房に働いている青年と同棲しているとのことだった。

(Oさんの眼差し)

明るくて飲み込みの早い彼女に接して、仕事を教えて育ててみたいと私は思った。彼女もその期待に応えてくれた。

妙に彼女がハイな状態が続いたある日、一緒に昼飯を食べに行ったら、彼女が嬉しそうに恥ずかしそうに言った。

「リウカさん、私、妊娠したみたいなんです。前にもこうなったから分かるんです。あの時は生まなかったから、今度は絶対、生みたい」

「おめでとう。でも、それならタバコとお酒やめないとね」

 と言って、ささやかなお祝いとしてお昼をおごった。

 翌日、私が出勤するとOさんは来ておらず、Tがはしゃいでいた。「いや、Oさんから電話があって『流れちゃう、流れちゃう』って、流産しそうで病院に行くから今日休むってさ。妊娠していたなんて驚きだなぁ」

その時ほど殺意を抱いたことはなかった。

このTをぶち殺してやろうかと思った。

妊娠の事実を私が知っていたと告げると、Tは「なんだつまらない」という顔をした。

それっきり、Oさんは会社に来なかった。渡していないアルバイト料があるので、一番親しかった私が彼女のところに電話をすることになった。消え入るような声で彼女は「もう、いいんです。いりません。いいんです……」と言った。それ以上こちらも何を言うこともできず、アルバイト料は現金書留で送った。

Tは今も会社にいる。同僚だったSの卓見によると、Tは何も仕事ができないが故に、会社にいられるのだという。つまり、社長が失敗したときは、全部、Tのせいにしたり、Tに当たり散らせばいいのだと。そのSの説を聞いて、初めてTがどうして会社に居られ続けるのかが腑に落ちた。おそらく、彼の説は正しい。

●気づきを謳う女、KNのこと●

 女性らしさも求められる季刊誌を創刊した関係で、女性社員が新たに雇われた。KNといい、私より年長の女性であった。一見腰が低くて、明るいキャラクターであったが、一面無神経であった。本人談によると以前はやさぐれた生活をしていたが、ヴィパサナ(仏教の瞑想法。漢訳では止観)を始めて、新たな人生が始まったのだと話していた。気づきが人を癒すのだとも話していた。

 彼女には、作りたい本があったようで、それはそれで結構なことだが、企画の説明はまったく要領を得なかった。とても大手出版社で月刊誌のアンカーをやっていたなど信じられない。彼女が企画に取り上げたある人物について、なぜ、その人物を取材するのかという、極めて当たり前の質問をしたところ、KNは説明せずに「どうして、わかってくれないのかなぁ」と自分が被害者であるかのように困って見せた。

 前から知っている人間は信頼しないくせに、新しく知り合った人間は信頼してしまうという社長の悪い癖が、またしても遺憾なく発揮された。

 私の質問は無視され、その号の編集管理はKNに一任することに社長は決めた。人数の少なかったB社では、大体、ページ数を人数で均等割りした分量を担当していた。が、KNは、任された号では連載以外はほとんど自分が立てた企画で埋め、自分が立てた企画は全部、自分で取材・執筆すると残りのスタッフに告げた。

 私を含めて残りの3人は、その号については仕事をしなくていいから楽なのであるが、私は彼女の挙動を観察していた。以前は月刊誌の編集部にいたというから、仕事ができるだろうと思ったら、全然できなかった。取材に行くという度に、カメラの使い方を教えてくれと1時間以上、講義。約束の時間が迫っているのに「うまく、取材できるかなぁ。うまくいかなかったら、どうしよう。ねぇ、うまくいくかなぁ」と言う。そんなことを自分以上のキャリアがあるはずの人に聞かれても、こちらが困る。

 B5の半ページの記事のための取材に、丸一日出かけて、取材相手と意気投合して楽しかったと笑いながら言う。じゃ、仕事もサクサク進めてほしいところだが、全然そうならなかった。数行のコメントを書くのに、数時間に渡る取材の録音テープを全部おこしていた。笑い声まで起こしていた。そんなのは使うところだけテープおこしすればいいのですよ、と私が言うと、「私には出来ないのだから、仕方がないじゃないですか」と困って見せながら怒っていた。

 そして、それまでB社で取り上げた人たちについては、こんなのどこがいいのか判らないというようなことを平気でいうくせに、自分が担ぎだしてきた企画に、他の3人が理解を示さないと不機嫌になった。

 また、全員で青焼きの校正をしているとき、情報欄(催し物の日時や開催場所の住所、連絡先の電話番号などがあるページ 記事の本文は誤字脱字があっても前後から意味がとれることは多いが、地名や数字の誤字脱字は前後からはまず判らない)の校正を任せたら、元原稿が私のところにあるのに、それを貸してほしいともいわずに、5分程度で「終わりました」と校正紙を持ってきた。「元原稿、見ていないでしょ? 何を校正したの?」と私が言うと、うんざりしたような顔で「わかりましたよ」と言って、作業をやり直した。つまり、自分が気に入らない仕事はいい加減にやっていいと思っていたし、実際、いい加減にするのである。

 編集部に私と二人しかいなかったのに、電話の応対していたら原稿が書けないと言って、KNは電話を取らない経理の部屋にワープロを持って行って仕事をしていた(こんなことをした人間は編集部にそれまで一人もいない)。というわけで私一人がじゃんじゃん鳴る電話を取っていたところに、スタッフの一人のI永が帰ってきた。事情を話したら、普段は優しいI永であったが、激昂して「もう、かんべんならねぇ」と経理の部屋に行って、KNを捕まえて戻ってきた。

人に迷惑をかけては「ご免なさい。私が悪いんです」と卑下する。その後、「どうせ、私なんか…」と卑下が続く。

その一方でいわく言いがたいおねだりのような発言があり、また他方では、人の神経を逆なでにするような無神経なことを言った。その時の編集部ではKNが一番の年長であったが、まるで子供のお守りをするような毎日であった。

 締め切りまでの残り日数を考えて、もうこれ以上は静観できないと考えて、私は社長に「このままだと、次号は出せません」と告げた。信頼してKNをほっておいた社長だが、私の言うことが大体において的確であることも認めていたので、KNを呼んで進行状況を質問した。事態は社長の想像を超えて深刻で、結局、彼女が担当した記事は一本も仕上がっていないことが判明した。女性にはきついことを言わない社長であったが、さすがに叱責した。

 土壇場で私たち3人は、KNの尻拭いをすることになった。尻拭いする過程で、うすうす気づいていた私の推測は的中した。取材対象は、彼女が入れ込んでいる「気づき人脈」ばかりで、要するに1冊まるごと私物化していたのである。

社長が他の3人に記事の担当を振り替えたときも、KNは「ここだけは絶対、私にやらせて下さい」とつぶらな目で訴えた。そこまで言うならと社長はその懇願を認めたが、私はKNの仕事の処理速度を知っていたので、安心はできないと思っていた。

編集部の残りの二人のうちの一人は、まだ23歳の気のいい女性、M野さんだった。「手伝えることがあったら、遠慮なく言ってね」と別にあてつけでなく本当にそう思って言ったのだった。「ありがと。でも、大丈夫」とKNは笑顔で断った。

その翌日の日曜日。会社は休みであったが、私はKNの仕事の進行が気になったので会社に出勤した。すると、見たこともない人間がわんさか居て、会社の机を占領していた。ぎょっとする私を見つけて、KNが「あ、私の友人たちです」と説明した。都合8人ぐらいいた。KNが席を外したときに、彼らの何人かに尋ねた。

1)普段から編集に関係する仕事をしているのか。 2)いつ手伝いを頼まれたのか。

私は全員に質問したわけではないが、1)にYESと答えた人間は一人もいなかった。2)の答えは全員、昨晩というものであった。要するに夜まで一生懸命仕事をしていたけれど、終わりそうもないので、友人たちに手伝いを頼んだわけだ。

お菓子やカップヌードルを振る舞いながら、「みんな、頑張ってねー」とKNは、笑顔で友人連にはっぱをかけていた。

 会社の同僚には頼まずに、その仕事をしたこともない友人に仕事を頼む――。彼女が仕事のクオリティより、自分の意地、つまり他の3人の手は借りないという考えを貫くなら、貫いてほしかった。

 が、8人居ようが素人は素人だ。結局、終わらなかったようで、月曜になって、M野さんに「これ、お願い」と言って、座談会のテープおこしを頼んだ。週末には「大丈夫」と助けを拒絶したのに。「笑い声の大きな人が●●さんで、……」といった調子で悪びれもせずにM野さんに説明していた(テープ起こしをしたことのある人なら判るし、したことのない人でも想像すれば判るだろうが、何人もの人が話している座談会は、他のテープ起こし以上にその場に居た人間が起こさないと訳が判らないものになる)。

結局、その1冊を作り上げた後に、KNは会社を辞めた。辞めて、またヴィパサナをしに京都に行くのだと私たちに告げた。

京都へ行って白人からヴィパサナを習うより先に、もっと気づいていいことが一杯あるんじゃないか。


――あとがき――

 HM社と違ってB社には実働がちゃんとあった。社長の性格には、馴染めないところはあったが、それでも仕事はできた。有能である。色々教わった。取って付けたように聞こえるかも知れないが、社長はイヤな性格をしている一方で、妙に素朴なところがあった。

 それから、自分で会社を興して大きくしたというのは、自営をしてみた自分として、率直に敬意を表す。いろいろな体験をさせてくれたB社に縁のあった人たちに感謝を贈りたい。
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