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所有の概念、その他

日誌の方に書かなかったので。12月18日、記憶の空白とともに帰宅すると友人のH原から電話がかかってきた。物語のページにある「ヘプタパラバビロンノッホ」の登場人物、松倉のモデルである。今も彼はダンスをしている。偉いと思う。

彼と初めて会ったのは、シュタイナー系の「言葉の造形」ワークショップであった。そのワークショップの主宰者I氏のことが18日の電話での話題に出た。

……

I氏のワークショップは、「科学と芸術のあわい」ということを謳い文句にしており、それに惹かれて、私は参加したわけである。シュタイナーのこととかも知りたかったし。

私が理系の学生であったため、I氏は協力してほしい旨をことを言ったと思う。私も色々知りたかったので、2年程度、参加しつつ協力した。が、内部に入ってわかったのは、言葉ばかりで私の知りたいことはそこにはないということであった。I氏は今はもうない科学雑誌の編集部にもいたことがあるので、科学者の名前は知っていたが、科学そのものの理解については私は首をかしげた。簡単に言うなら、中学レベルの理科についてさえ怪しい。科学知識がなくてもそれ自体は悪いことだとは思わないが、知識を持たない人間が、「一緒に勉強しましょう」ではなくて、「これはこうです」などと講釈を垂れるのはいかがなものか。

知識がない以上に私が気になったのは、立脚点不明の「嗜好」や「批評」であった。市井の一般人なら、何を嗜好に持っていようが、それはそれで構わない。だが、シュタイナー、シュタイナーと口がすっぱくなるぐらい、その名前を出す割には「自己認識」が足りないのではないかと私は思ったのであった。

立脚点不明の「嗜好」とは次に述べるようなものである。ある催しものを進行させるとき、彼はそれが電気を一切使っていないということを、それがさも凄いことであるように私に説明した。一方で、彼はニコラ・テスラの再評価のことをしきりに力説していた(当時、まだテスラの伝記の翻訳はなかった)。テスラが人類史上に輝く超人的科学者であることは、私も認める。が、一方で電気を使わないことが凄いことであるかのように言い、もう一方で電気文明の礎を築いたテスラを称賛するというのは、私からすると「一体、どっちなの?」と聞きたくなる。事実、尋ねたのだが、納得できるような回答は得られなかった。

例えば、スイッチをひねるだけで何か結果が出てしまうような電気製品ばかりになれてしまうと、人間の創造性や身体性が歪む可能性が大であるがゆえに、電気を使わず、五感と身体を使ってものや自然に接することが大事なのだ、という説明でもされたなら私も納得したかもしれない。

が、彼の説明は違った。アメリカの何とかいう団体の誰それという人物が、それを称賛しているだとか、そういう話。そして、そのパターンは科学に限らず、芸術でも神秘学でも同じなのであった。

つまり、自分の理解に根ざしていない。自分は個性的だと言いながら特定の雑誌の流行情報を真似ているだけのファッションかぶれと構造上、変わらない。ファッションかぶれなら、自分が真似ているだけだと気づかなくても何も罪はない。が、自己認識や瞑想を謳う体系を講義するなら、これまたいかがなものか。

そして、ファッションなら、真似ている人間はせいぜい「個性的」と主張するのが関の山だが、マイナーな世界だと、もっと醜いことも起こりえる。

立ち読みしただけなので、今、手許にその本はないが、「別冊歴史読本」のある号でオカルト出版で有名な八幡書店の武田崇元社長の批判記事が載ったことがある。そこに載った話が、私が言いたいことの極端な例として明瞭なので、遠回りのようだが、そのことに触れたい。

ある人が、ある本を日本語訳しようとして、原著者に連絡して快諾を得た。翻訳を進めていると、そのことを知った武田氏からクレームが来たという。「誰に断ってやっているのだ」と。その本は自分の畏友・武邑光裕が訳すことになっているのだ、と。だが、武邑氏は、原著者に連絡をとったこともなかった。原著者が秘密団体の奥の院の居住者でもあるかのように武邑氏は勝手に思っていたようだ。手続き上に何の不備もないので、武田氏の横やりを突っぱねた、そのある人は武田氏からこんなことを言われる――「霊的著作権はこちらにあるのだ」と。笑い話のようです。

特定の情報は特定のルートでしか手に入らない時代が長かった。今でもそうした情報は当然あるが、外国で公刊されている書物の著者でさえも占有しようとするわけだ。「その情報は私のものだ」と根拠もなく主張する。そして、それを知っていることが「偉い」。(それが誰の手にも渡るようになったら自分の「偉さ」が成立しなくなる。裏情報に精通していることでしのぎを削るマニアの世界と似ているかもしれない)

そして、根拠のない「批評」とは――。科学知識がなくて科学のことを話すのと似たようなことだが。例えば、I氏は笠井叡氏のオイリュトミーを「タコ踊り」だと批判した。笠井氏はドイツに留学してオイリュトミーを学んできたが、I氏はオイリュトミーを稽古したことがない。本で知っているだけだ。なのに口を極めて批判する。自分の方がシュタイナーを理解していると思っているわけである。

そんなことがあって、このワークショップに参加してても仕方がない、と思い、スタッフとして協力するのは辞めますと私はI氏に告げた。私としては別に表面だって喧嘩したわけではなかったので、催しものをするときはまた連絡して下さいと言っておいた。が、その後、二度と案内は来なかった。

偶然、街中でI氏に出くわしたことが何回かあった。こちらは挨拶するのに無視したり、無視できない状況だと一応挨拶はしたものの、こちらの連絡先を渡しても、やはり案内は二度と来なかった。

……

やっとH原との電話の話に戻る。H原はワークショップの参加者の女性と結婚した。冗談まじりではあったが、I氏は「うちの者が、参加者に手をつけた」としきりに言った。H原も興味を失って私が離脱してしばらくしてワークショップを離れた。で、つい先日、彼のダンスの公演で、主宰者がたまたまI氏の知人だったとかで、I氏が見に来た。I氏は主宰者に会うと「うちの者のつたないダンスに、申し訳ない」とか「彼はうちの参加者に手を付けて足抜けしたのだ」とか言ったらしい。H原が不愉快になるのも当然である。彼にしてみれば、ワークショップに関わっていた年月よりも結婚生活のほうが既に長いのだ。私もH原もスタッフとして手伝いはしたが、別に入団式をして結社に加わったわけでもない。

シュタイナーをずっと読んでいても、彼のエゴは変わっていないようだ。


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