それは破滅への道をひた走る物語である。始まりも終わりも拒否しつつ最果てへと向かう衝動に突き動かされ、そして破滅へと至った者たちの物語である。これから繰り広げられる物語は、その追憶に捧げられたささやかな手向けであり、咎めである。またそれは一夜の夢であると同時に遥かな太古から語り継がれてきた忘却の一節でもある。図らずも、彼らが拒否し続けた始まりと終わりを彼らに見せなかったということで、この世界は「やさしさ」を示してくれた。たとえ破滅へ至ってしまったとしても、それは終わりではなかった。そして始まりでも。絶えず宙ぶらりんであり続けた者たち、彼らは彼らなりの生を全うしたのである。
生き残った者たちの忘却に安らかなる愛を……。
「これは始まりの終わりではなく、終わりの始まりである」W.チャーチル
龍宮由紀子から水谷は聖ヒエロニムスのポストカードをもらった。その日の昼、水谷はヒエロニムスという名の綴りを調べていたので、彼にとってこの贈り物は或る種の暗合のように思われた。彼はヒエロニムス・ボッシュの絵が好きだったが、この時その名を調べていたのはボッシュに関連してではなく、アメリカの科学者トーマス・ガレン・ヒエロニムスについて調べるためだった。
サイオニクス装置、又は発明者にちなんでヒエロニムス・マシンと呼ばれる機械がある。1949年に特許番号2482773で認められた彼の発明は元々は「鉱物放射検知器」というものだったが、この発明には全く違った使い道があった。害虫の被害を受けている農園の写真を撮り、その写真をこの機械に載せてダイヤルを回すだけで害虫を絶滅できるというのだ。撮影されなかった場所の害虫は何の影響も受けないというのにである。この妙な機械を色々調べた或る雑誌記者は呆れるような事実を発見する。この機械には実際の部品はほとんど不要であり、ソケットとナイロン糸を、紙に書いた回路図に繋いだだけでも機能に変わりがなく、そのうえ電源さえも要らなかった。つまり、この機械は操作者の精神エネルギーによって作動する。
精神エネルギーが物理現象として現われることに興味を持って水谷はヒエロニムスについて調べてみたのだが、大した収穫はなかった。その夕方に聖ヒエロニムスのカードを貰ったのである。
「シンクロニシティ…」
そんな聞きかじりのユングの用語がふと水谷の口から漏れた。
由紀子はいつもと同じように微笑んでいた。
遠い昼。どこまでも遠い昼。真昼の空に太陽は凍てついたかのように、全てを知らず全てを忘れたかのように貼り付いている。光る肌を持つ子供達は荒野の幼稚園でお遊戯をしていた。この子供達にはそれぞれ双子の片割れがおり、その片割れの子供達は永久凍土に打ち建てられた遊園地のメリーゴーランドで笑っている。無垢の中に産み落とされたこの子らの見る夢……それは至福の工場で動き続ける機械。ガタン・ゴトン、ガタン・ゴトン、ガタン・ゴトン、ガタン・ゴトンと動き続ける機械……。
天井に無意味な扇風機が回るバーの30インチのTVモニターに「ザ・ベスト・テン」が映し出されている。「今週のスポット・ライト」では、菊池桃子が伊勢神宮で「かごめかごめ」を歌っている。第二位、黒装束の中森明菜が夢の島のゴミの山の上で暴風雨の中を歩きながら「ワルシャワ労働歌」を歌っている。第一位、皇居の特設ステージで松田聖子が「ホルスト・ヴェッセル」を歌い上げる。垂直に夜空へと屹立するサーチライトの光はまるで巨大な神殿の柱のようだ。
「…これは一体いつの録画なの?」と、見ていた男は尋ねた。
ほとんどの客はTVモニターなど気にしていなかったので、その男の問いに答えは返ってこなかった。何事もなかったかのようにまた同じざわめきが広がっている。
水谷もその男の独り言など全く気が付かなかった。バーの片隅でコーヒーを飲みながら文庫本を読んでいる。
「いやぁ遅れて済まない。」
やって来た男は水谷に声をかけた。
「別に構わない。」
文庫本を閉じながら水谷は答えた。相手は向かいに座り、会話が始まった。
「今度は80ページぐらいにしようと思っているんだ。水谷はどうする?」
「題はもう決まってる。『案山子舟』って言ってね、一人の少年の放浪記なんだ。」
「『カカシブネ』ね…。なんか寂しくもあるし、おっかない感じもするな。」
「それからペンネームは――」
と言って紙を取り出すとそれにボールペンで字を書いた――「香具子山隆一」。
「なんて読むんだ。」
「カグスヤマ リュウイチ。何となく思い付いてね。」
「ふーん」
気のない返事をすると男は届いたばかりのカクテルを一口飲んだ。
「例えば、そんなことは幾つでも、そしていつでもあっただろう。思い出そうとしても、その一瞬に収束しえない古惚けた記憶。あるいは前後の脈絡が全く見いだせない風景の一コマ。自分は歳をとらない。これは正解だ。時間というものは絶対的なものではなくて、ある種のハードル競走だからだ。“うまくかわす”とはうまい言い回しだ。もしかすると永遠などというものは手に取ろうと思えばすぐに手に取れるものなのかも知れない。いや、きっとそうだ。約束――ずっと以前からの――をやはり思い出せない。それ自体夢もしくは思い違いだったりする。さすれば自分自身が自分自身の思い違いの産物であると言って大差ない。常に発端は謎であり、発展はフィードバックにハウリングなのだ。『謎が謎を呼び』と他人事のように事態を形容するのはある意味で核心を突いている。自分自身謎であり、そしてそれが錯綜混乱しているのであるから。他人事も自分事も究極では領分不明になる。
予言めいた閃き、またはお告げが来ると何の根拠もなく確信するのだ。しかし、それが外れても大した意味はない。どうせ安っぽい神経の軋轢の産物なのだから。」
そうノートに殴り書きをしてから水谷は『案山子舟』の原稿を書き始めた。
冥府魔道の荒野、一人の少年が突き進む戦慄の冒険記
案山子舟 香具子山隆一
第1章 空っぽの世界
白い壁。白いシーツが敷いてある白いベッド。そよ風で白いカーテンが揺らぎ、窓からは柔らかな陽射しが差し込む。時間から見放されたような穏やかな世界。ここは静寂が支配する裏返しの楽園だ。
僕がなぜこの病院に居るのかは定かではない。生まれたときからずっとここに居るような気もするけど、そんな馬鹿なことはないだろうと思う。でも思い出せないのだから、いつからここにいるのかもその理由も分からない。そんなこと全く気にかけずに遠くで小鳥がさえずっている。
「検温のお時間です。」
白衣の看護婦さんが昨日と一昨日と一昨昨日と同じようにやって来た。僕は体温計を受け取って脇に挟む。
「ねェ、看護婦さん、一体いつになったら此処から出られるんですか?」
これもずうっと繰り返されてきた質問だけど、その日の返事はいつもと違った。
「後で院長先生のところへ来てください。」
院長先生に会うことは滅多にない。これはどうしたことだろう。もしかしたら退院できるのかな…。色々な空想をしているうちに検温は済んでしまい、看護婦さんはさっさと行ってしまった。その後ろ姿を見送る先に、最近見かけるようになった若い見習の看護婦さんが立っていた。視線が合うと彼女はにっこりと微笑んだ。
院長先生の部屋も病室と同じように清潔で静かだった。それまで書いていた書類(カルテかな?)を仕上げると、院長先生は回転椅子を回してこちらを振り向いた。
「待たせて悪かったね。」
そう言っておきながら院長先生は次の言葉を出すのをえらくためらっていた。少し間をおいてから、ようやく心構えが出来たといった感じで話し始めた。
「率直に言おう。君の病気なんだがね、君は「不死の病い」なのだよ。」
「はぁ…、不治の病いですか…。」
「いや違う。「不死の病い」。要するに君は死ねない体なんだ。」
ぽつんと立っている街灯を横に見ながら水谷は夕暮れの町を歩いていた。やらなければいけない用事は山ほど在ったが、どれも手を着ける気がせず散歩に出たのである。当てどない歩みで、人も疎な路地を進む。「メメント・モリ――明日は我が身――」と題された写真展の看板がふと目についた。水谷はそのビルをしばらく見上げていたが、ふらっと中に入っていった。
がらんとした場内には、ただ何の細工もない額が整然と飾られていた。その額にはモノクロの死体写真が填まっていた。自殺・他殺、惨殺・有終の美。
水谷はある額の前で立ち止った。それは腹を割かれた婦人の写真で、割かれた腹には胎児が丸くなっている。不思議な奇麗さを水谷は感じた。
「『胎児の夢』…」
ふと水谷の口を衝いてその言葉が出た。何かの本に出てきた言葉だが、どの本に載っていたのものかは思い出せなかった。彼の脳裏に浮かんだもう一つの言葉は「Alepitapha」というものだった。これはどこで出会ったかを心配する必要がなかった。なぜなら彼が自分で作った言葉だからだ。自分の描く漫画の表題に使おうと彼は考えていた。
「Alphaすなわちαはアルファベット最初の文字であり、天と地とを指し示し、始まりと終わりを意味する。その只中にepitaphつまり墓碑銘が挟まれるこの言葉は死と再生とその間の浄化を表すために考えた。」
そう彼は友人に説明したことがある。
αの形…ムスヒの概念…部分と全体の関係…場と粒子…。古神道の、ホワイトヘッドの哲学の、現代物理学の断片的な知識が彼の頭の中をぐるぐると駆け巡った。
水谷が今度立ち止ったのは何の変哲もない写真の前だった。一人の男が地面にうつ伏せに倒れている。唯それだけの写真だ。彼の気を引いたのは額の下にかかれた一節だった。「眠っているのですか? それとも死んでいるのですか?」
そういえば眠っているようにも見える、と彼は思った。写真で見るかぎりではどちらであるかは分からない。もしかしたらこの会場にある写真が全て偽物ではないだろうか?
そう考えることは出来ても確かめる方策は水谷にはなかった。
帰りしなに彼は、受付の女性にしつこく質問する陰気臭い男を見た。
「ねぇねぇ、アレほんとに死体の写真なの?」
虚ろな目、何を見ているのだろう? 逆遠近法の支配する黄金時代。荒ぶれた風景の中で狂い咲く徒花の中、朽ち果てた瓦礫を踏み締め、唯ひたすら歩く血塗れの予言者。その予言者に、まるで当たり前のようにせがみ貧る少女たちは、己が可愛らしさをかざして歌っている。彼女らの父親は「ええじゃないか」に行ってしまい、母親は「お陰参り」に勤しんでいるはずだ。他のみんなは泥沼の中で踊っている。
瓦礫の町を抜け、風が吹きすさぶ荒れ野を一人ゆく血塗れの予言者。一人の大道芸人が大きな身振り手振りを加えながら口上を宣っている。そのぼろぼろの幟りには「至福千年王国夢もの騙り」と書いてある。
「どうにもならない どうでもいい 堂々巡りのリハビリ合戦。負け抜いて負け抜いて、続く千里も真実一路。どうせ火事場の付け焼き刃、慌ててみても仕方がない。どのみちきっと果てしない「まぁ取り敢えず」が優しく包んでくれるだろう。」
複雑に入り組んだ小道からほんの少し入っただけの角に、そのビルはあった。水谷は地下室へと降りてゆく。薄暗い廊下の終わりに、「喫茶はてな?」と書かれた看板をを掲げた店があった。
中に入ると先日バーで水谷と話していた男が座っていた。水谷はその男――時枝希助の出す同人誌《Weltgeheimnis》に寄稿していた。その誌名は時枝が付けたもので、彼の趣味を端的に表していた。
「書いた分だけ持ってきたよ。」
ウェイトレスにブレンド・コーヒーを注文すると、原稿が入った封筒を水谷は時枝に渡し、椅子に腰を下ろす。
「ところで時枝君はどんなの書くの?」
「大体構想は出来てんだけどね。『宇宙の双羽黒』ってゆうSF小説。」
「ハぁ? なにそれ?」
「思い付きって言えばそれまでだけど、暗黒の虚空に浮かぶ巨大な双羽黒を想像して欲しい。それが、さながら『2001年 宇宙への旅』のスターチャィルドのように地球を見下ろしてんだ。あの焦点の定まらない目でね。
……何を言い出すんだと思うかも知れないけど、最近「闇の産土神」という言葉が頭を離れないんだ。「夜の産土神」と言い換えてもいいかもしれない。…やっぱり「夜」って言葉は不適切だな。これだと朝が来ることを認めているから。それでその「闇の産土神」として双羽黒が地球に帰ってくるとゆう話。」
「「ヤミのウブスナ」?…。双羽黒が「帰ってくる」ったって、帰るも何も今地球に居るじゃない。」
「そういうイメージで頭に浮かんだんだとしか言い様がない。ただ、善とか悪とかでなく、何物をも無化してしまう来訪者のイメージだね、これは。」
水谷は時枝を見つめながら、話の途中でテーブルに置かれたコーヒーを一口飲んだ。
「なぁ、水谷…」
時枝の目は悲しそうにも見えるし、ほくそ笑んでいるようにも見える。
「もしもだよ…もし人間の歴史というものが、全て彼の留守中の出来事だとしたら、どうする? 彼は帰ってきて何をするだろうね。」
時枝は水谷の反応を観ている。水谷は時枝の冗談には長年付き合ってきたが、このとき彼が冗談を言っているようには思えなかった。言うべきことが見つからず黙っていると、時枝がポツリと言った。
「掃除をするんじゃないだろうか、それも大掃除を。」
「ボクノ遺伝子ノ古里ハ遠イ遠イ国。
目ヲコラシテミテモ見エヤシナイ。
ボクノ遺伝子ノ古里ハトッテモ遠イ国。
背伸ビヲシテモ見エナイヤ。
マダ見ヌ古里ニ手紙ヲ送ルヨ。
ボクノ姿ガ見エマスカ? ボクノ声ガ聞コエマスカ?」
「う…うん…ん?」
寝ぼけ眼で時計を見ると時刻は、8時50分。水谷は驚いて時計をもう一度確認した。8時50分。やはり8時50分だった。
(しまった、遅刻だ!)
水谷はそそくさと服を着るとアパートを飛び出した。表通りに出てタクシーを拾う。
「お客さん、どちらまで?」
「中西の交差点。そこで右に入ってください。」
通りは渋滞していた。時刻はとうに9時を過ぎている。間を持て余したのか運転手が水谷に話し掛けた。
「お客さん、これからお仕事ですか?」
「ええ。まぁ、アルバイトですけど。」
「ほう、何をやっているんですか。」
「中西の交差点を入ったところに教育諸問題研究所というのがあるんですが、そこでデータ入力をしてます。」
「教育諸問題研究所?――てぇと、日教組をどうやって叩き潰すかとか、アカの連中をどう始末するとか研究してるんですかい。」
運転手は屈託のない笑顔でそう尋ねた。水谷は意想外の質問に一瞬戸惑った。
「…いや、あの、特に政治的な目的は持ってません。」
「はァ、そうですか。で、アルバイトというと本職は学生さん?」
「ええ、宮戸大学に通ってます。」
「へぇ、なかなかエリートさんだね。専攻は何ですか。」
「物理です。」
「物理! じゃ、頑張って原爆造ってくださいよ。何なら私も手伝いますから。なんでもイスラエルも持ってるっていうじゃありませんか。」
水谷は全く面食らってしまった。
(何だ、この運転手は?)
「原爆さえありゃ、アカどもなんかにデカイ口叩かせずに済むんですよ。」
自動車はようやく渋滞を抜け出し、軽やかに走りだした。運転手は原爆の必要性を説き、原発反対者を糾弾した。水谷はただ黙って聞いていた。
中西の交差点で右折し、タクシーは研究所に着く。水谷が降りると、運転手はにこやかに言った。
「頑張ってくださいね。」
時枝はまどろんでいた。月明かりの差し込むカタカタと揺れる窓枠の下で、カーテンに身をくるみ眠っていた。そして夢を見ていた。
何だ、あの音は? 地響きみたいな低い音がこっちに近づいてくる。来るぞ。来るぞ。来た! 轟音と共に壁が崩れ、瓦礫が飛び散る。一体何が起こったのだ? 土煙と埃が濛々と舞い上がってる。
「セニョール! ただ今、参りました。」
土煙の向こうから、すっとんきょうな声が響く。戦車? 戦車だ。脂ぎった顔に親しみを込めた笑いを浮かべたおやじが、戦車の砲台に乗って手を振っている。にこにこしたこの男は俺のことを知っているらしい。
「セニョール、この原幌比礼晴、貴方のためには労は惜しみませんぞ。ご依頼の件は必ずや成し遂げます。ハハハ。」
ハラホロヒレハレ……どうやらそれがこいつの名前のようだ。なんてふざけた名前だろう。だが人の名前を笑うのは失礼というもんだ。それにこの男は俺のために何かをしてくれると言ってる。とりあえず、挨拶だけでもしなくては。「申し訳在りません。ハラホロヒレハレさん、貴方のお名前を失念していました。以前どちらでお会いしましたか。」
「ハハハ、セニョールのご依頼があったので、駆せ参じたのですよ。こちらが部下の品場諸友(しなばもろとも)です。」
と言うとステッキで車体を叩いた。
「品場諸友であります!」
操縦席の上のハッチが開くと、いかつい顔をした若い男の上半身が飛び出し、敬礼をした。
「依頼…?」
「大分お疲れのようですな、セニョール。ご依頼の件までお忘れになるとは。ほら、この男の始末を我々に頼んだではありませんか。」
にこにこしたおやじが俺に向かって写真を一枚投げた。若い男のいかつい顔がニヤリとくだけた。渡された写真を見ると
「 ! 」
時枝は見開いた目で闇を凝視していた。窓枠はカタカタ震えている。体を丸めてカーテンに包み直した。
「あれは…水谷…」
ピピピ・ピピピ 電話が鳴った。水谷は解きかけの数学の問題を書いたノートを投げやって受話器を取った。
「水谷さんのお宅でしょうか。文理さん、いらっしゃいますでしょうか。金子です。引島平高校の同窓の金子です。」
早口でまくしたてるその口調を聞いて、水谷は軽い虚脱感を覚えた。
(…また彼だ…)
「金子ですけど、文理さんいらっしゃいますか。」
「…はい。水谷です。」
「水谷さんですね。お久しぶりです、金子です。」
水谷は既に苛立ちを感じていた。金子が前回電話をよこしてからまだ一週間しか経っていないし、その時にもその前の時にも水谷は自分が独り暮らしを始めたことを話しておいたのだから、金子の言葉は丁寧を通り越して不愉快であった。
間を開けずに金子が言葉を継いだ。
「独り暮らしですか。どうですか。何かおもしろいことありましたか。水谷さんはアレですか、何かサークルとかには入っているんですか。」
「入ってないよ。」
「するとアレですか、友人とゆうとゼミとか同じ学科の人間ばかりですか。」
「違うよ。」
「じゃ、水谷さんは、小学校とか中学校とか高校の時の友人に会ったりしてますか。」
「わざわざ会ったりしない。」
「彼女はいますか。」
前回の電話の時もそうだった。金子の話は、まるで警官の職務質問のようである。
「…あのさ、そんなこと訊いてどうするの?」
「つまりですね、この24年間生きてきた人脈というものが水谷さんにもあるわけですよね。それで、水谷さんがどのような人脈を持っているのか聞きたいわけです。」
「何よ、その人脈って?」
「ですから、その、小・中・高で同じクラスだった奴とか、大学で同じゼミだとか、サークルが同じだとか。」
「友人はいるけど、人脈なんて持ってないよ。」
「あのですね、私も24年間生きてきて多くの人間に会ってきたわけです。それでその人脈というものを大切にしたいわけなんですよ。最近、小学校の時の同級生とか、中学校の時の同級生とかを尋ねて回ってるんです。まぁ、引越なんかして連絡の付かない奴がいますけど。」
「会ってどうするの。」
「今何をしているのか、他の奴がどうなったか尋ねたりするんです。」
「それが人脈を大切にするってことなの?」
「だって級友を忘れるなんて失礼じゃないですか。私は小学校の時からの級友の名前は全部言えますよ。」
金子は義憤に駆られたかのように熱き語りを続けた。
「この戦いに勝者も敗者もない。あるのは、ただ死者と生存者だけである」
A・ヒトラー (ラジオ演説)
第2章 突破口
さようなら、僕の腕。さようなら、僕の脚。さようなら、僕の骨…。
僕は夢を見た。不思議な夢だった。落下する夢。僕は落ちて行く。闇の中を音もなく落ちて行く。自分の手も脚も見えずに、だけど確かに自分が落ちて行く夢。底なしの闇をひたすら落ちて行く夢。
目が覚めると、白いカーテンが月明かりに青白く浮かび上がり、ゆらゆらと揺らいでた。額に手を当てるとじっとりと汗をかいている。他の患者達はまるで人形のようにベッドに横たわっていて、物音ひとつしない。ただカーテンだけがまるで恥じらうかのように青白くゆらゆらと揺れていた。
その夢は一度しか見なかった。見なかったはずだけど、僕には、あれが単なる夢だとは思えなかった。いつとは言えないけど遠い昔に実際あったことのようにも思えるし、また、これから起こることを何かの拍子に垣間見てしまったようにも思えた。
どちらにしても、何かが僕の中で変わってしまった。周りの世界がまるで味気ないものになってしまった。別に以前なら味気があったとゆう訳じゃない。前からつまんない場所だった。ただ、これほどまでに「気づく」ことはなかった。他の患者と一緒に庭園で自由時間を過ごしていても、食堂で配膳の列に並んでいても、他の人達が全部幻で、僕はその幻の中に閉じ込められているかのようなもどかしい気分になった。
今まで考えなかったってことが不思議なくらいだけど、ここを抜け出そうなんて考えもしなかった。退院だけを待っていたのに変な話だ。おまけにこの前、院長先生に言われるまで、僕は自分の病名を知らなかった。何でこんな所にいたんだろう?
嵐の夜だった。僕は抜け殻のように寝静まる他の患者をあとにして病室を抜けだした。誰もいない廊下をわたって扉を静かに開ける。外だ! 荒れ狂う風も土砂降りの雨も心地好かった。丘まで一気に走る。裸足がつかるぬかるみさえ気持ち良く思えた。
と、丘の上の樹の下に白い影が見える。それまでの有頂天が急に縮こまり、恐怖の心が押し寄せた。立ち止って目を凝らすと、あの若い見習いの看護婦さんだった。ずぶ濡れになって樹の下に立っている。乱れた髪が額から一筋二筋と垂れている。看護婦さんは悲しげな目で僕を見つめながら丘からゆっくりと降りてきた。
「行ってしまうのね…」
僕はコクリとうなづいた。
「…ここにいましょう。ね、ずっと一緒にいましょうよ。」
僕は黙ってた。雨が降り、風が吹き付ける。
「だめ。行かないで。ねェ、考え直して。」
「こんな所にいたら生きてるんだか、死んでるんだか、分りゃしないよ。」
「死ねないあなたなら、どっちでも同じでしょ。」
「そんなことない!」
彼女は僕のことを見据え直してから静かに口を開いた。
「私のこと…嫌い?…」
雨が殴り付け、風が二人の間をびゅうびゅうと吹き抜け、彼女の黒髪が風に流されている。
「私のこと嫌い?… 白衣を着ていても、その下は普通の娘と同じよ。熱く赤い血が流れているわ。」
彼女は歩み寄ると僕の右手を取り自分の胸に押しつけた。
「ほら、私の血、こんなに速く走ってる…」
そう言うと彼女はさらに一歩近づき、そっと、それでいて力強く僕に抱き付いた。殴り付ける雨。吹きすさぶ風。揺れる樹の枝、幹。荒れ狂うどす黒い雲。彼女の鼓動。摩り付ける肢体。届く吐息。
「ああァーーーっ」
訳の分からないものが神経の中で頂点に達した。僕は叫び声を上げて彼女の腕を振り払うと、闇の中を一目散に走りだした…。
時枝はそこで読むのを止め、テーブルの上に水谷の『案山子舟』の原稿を置いた。グラスのリキュールを少し飲み、煙草に火をつけ、気に入りのジタンで一服つける。
「水谷らしい作品だな…」
紫煙をくゆらせながら時枝はつぶやいた。
午後11時。電話が鳴り、水谷は由紀子からかと思いすぐに受話器を取った。
「速いな。速いな。」
由紀子ではなかった。松倉からの電話だった。
「水谷君、電話、出んの速いね。」
松倉は東国大学のインド哲学科を卒業したが、就職し損ね、アルバイト生活している男だ。水谷が松倉と知り合ったのは2年前だが、最近よく電話をかけたり、会って話をしていた。
「今晩は。どうしたの?」
「ねェ、ねェ、水谷君、UFO見に行かない?」
「何だよ、いきなり。」
「いやァ、最近UFOが面白いかなと思って。」
松倉のノリは、水谷にとって大抵唐突なのだが、話そのものは面白いので会話が成立した。芸術の話とか、舞踏の話(松倉は舞踏をやっている)とかするのだが、話題はもっぱら神秘主義のことで、UFOのことをSF小説と関係なしに話題にしたのは、これが初めてだった。しかし、水谷は彼の本棚にユングのUFO研究書があったのを覚えている。
「最近じゃなくても、ずっと面白いよ。で、なに、UFO銀座でも見つけたの?」
「そうじゃないけど、一度くらい見ておきたいじゃない。世紀末だし。」
水谷もそれを見たことはなかった。南山宏の組んだ特集を「少年マガジン」や「少年サンデー」で読み、矢追純一の「木曜スペシャル」を熱心に見る少年時代を過ごしたが、自分の目でそれを見たことはなかった。
黙っていると松倉が言葉を継いだ。
「後十年で1999年だからね。空から「恐怖の大王」がやってくるでしょ。」
「ノストラダムスのこと言ってるの? 僕は全然信用していないんだけど。」
「アレって、宇宙人じゃないのかな。」
「知らない。占いのことなら香山君に訊けばいいじゃない。」
香山というのは松倉の友人で、占いを研究している。松倉の紹介で水谷は彼に会って話をしたことがあった。香山が言うには、水谷は変な運勢を持っているとのことだった。
「「恐怖の大王」だぜ、「恐怖の大王」。こえぇーよな。」
水谷は、宇宙人の目撃例の殆どが地球人型であることから、所謂宇宙人は、別の天体で発生・進化したものとは考えられないと主張した。偶然に地球人と似る可能性自体かなり低いし、よしんば似た姿をしていたとしても、その宇宙人の文明期と地球人の文明期が重なり、その宇宙人は地球の存在に気づき、地球までやって来なければならない。のみならず地球のある太陽系は銀河系の中では辺境に属する。水谷の結論としては、地球人に似た宇宙人が他の天体から飛来する可能性はゼロだということになる。要するに宇宙人と言われているものを常識的な物質存在として考えるなら、地球上の生物としか考えられない。
ホモ・サピエンスに滅ぼされたとされる先行人類の脳容積が現代人の1・3倍で、身長は現代人の子供程度しかなかったことが水谷の推理の傍証になっていた。先行人類の容姿は、よく目撃される小人型宇宙人に似ている。
「ライアル・ワトソンの本にその先行人類の話、載ってたよ。じゃあ、太古の仕返しに十年後に攻めてくるのかな。」
「後十年で人類の滅亡が来るのなら、その一部始終を見届けたいよね。」
「人類史上最大の見せ物だなぁ。いやァ、見ものだよ、これは。」
(常識的な物質存在なら……)
松倉との電話を終え、心の中でつぶやきながら水谷は本棚から一冊の本を抜き出した。ユングの自伝である。月村沙織に最後に会ったとき、彼女から買い取ったものだ。彼女は心理学に一時期凝ったのだが、興味を失い、その分野の書籍を処分した。水谷の見たところ、要するに心理学が彼女の心理状態に何ら救いをもたらさなかったので、彼女はそれを見限ったようだ。今では心理学者のことが頭に来るとまで彼女は言っていた。
その一月後に電話をし、特別変わった様子もなかったのに、次に電話をしたら聞こえてきたのは「貴方のおかけになった電話番号は現在使われておりません…」という例のメッセージだった。彼女のアパートに行き、大屋さんに尋ねたところ、最後に通じた電話から4日もしないで、彼女が引っ越していたを水谷は知った。周囲の友人にも質問してみたが、彼女の行き先を知っている人間は誰もいなかった。
UFOのことで読みたい箇所があったのでその本を手に取ったのだが、水谷の頭に浮かぶのは、沙織に関する連想ばかりだった。
ユングの自伝の表紙に刷られた「思い出・夢・思想」という副題。極々短い会話だったが月村沙織からかかってきた電話で忘れられないものが水谷にはある。あれは「未来世紀ブラジル」を名画座で観た晩だった。電話が鳴り受話器を取ると沙織だった。
「今晩は。月村ですけど。」
「ああ、今晩は。」
「あの…、きょうはお礼が言いたくてお電話したんです。」
「? なんの、ですか。」
「夢の中に水谷さんが現われて、とっても優しくして下さったので、そのお礼が言いたくて。どうもありがとうございました。」
「え? あの…」
「それでは、お休みなさい。ふふッ…」
ツー・ツー・ツー・ツー。
水谷は記憶を手繰るのを止めて、本を開きページを捲った。
一つの夢は、私が一九五八年の一〇月にみたのだが、夢で私は、二つのレンズの形をして金属的な輝きをした円盤が、家を越えて湖の方に弧を描きながらぶーんと飛んで行くのを、家の中から見た。それはUFOだったのだ。すると、もう一つの円盤が私に向かって真っ直ぐに跳んできた。それは全く円型をしたレンズで、望遠鏡の対物レンズのようであった。四、五〇〇メートルの地点で、それは暫くとどまっており、それから飛んでいってしまった。すぐその後で、もう一つ他のが空中を飛んできた。それは 一つのレンズで、金属で一つの箱 魔法の幻灯 につながっていた。それは六、七〇メートルの距離に制止して、真っ直ぐ私に向かっていた。私は驚きの感情とともに目覚めた。半分夢の中で、考えが頭にひらめいた。すなわち、「われわれは空飛ぶ円盤がわれわれの投影であるといつも考えている。しかし、今や、われわれが彼らの投影となったのだ。私は魔法の幻灯から、C・G・ユングとして投影されている。しかし、誰がその器械を操作しているのか」と。
どんよりと雲った日が時枝は好きだった。微妙にトーンを変化させながら身をくねらすようにうごめく灰色の雲は、青空の下で野放図に伸びている雲の無神経さなど比較にならない繊細さを具現している――そう時枝は考えていた。
そんな、どんよりとした日に時枝は散歩に出た。彼は外出するとき、時として部屋の中でもサングラスをかける。そうすることによって、周囲の世界を映画を観るような気分で眺めることが出来るのだった。だから、サングラスをかけて日長一日雑踏を眺めたりすることも彼の楽しみの一つだった。
だがこの日は本物の映画を観に出たのである。キューブリックの「博士の異常な愛情」が名画座で上映されているのを、買ったまま目を通してなかった情報誌をパラパラ捲っていて見つけたからだった。
サングラスのフレームの中のモブ・シーン。無声映画の登場人物みたいにせわしなく行き来する。彼は映画館へと足早に歩いていった。
映画館はすいていた。ひんやりとした空気に包まれてフィルムは淡々と進んでいく。ピーター・セラーズ紛する主人公の活躍にもかかわらず原子爆弾が投下され、キノコ雲がにょきにょき上がるところで、黒い笑いに包まれたこの映画は終わる。そのラストに流れる甘い歌声を聴きながら、時枝は字幕の訳詞を追っていた。
いつかまた逢いましょう
どこかである晴れた日に
いつまでも笑いを忘れず
暗い雲が青空に変わるまで
忘れないでね、この歌を唄う私だから
いつかまた逢いましょう
どこかである晴れた日に
映画館を出てどこか喫茶店にでも入ろうと歩いていたら、見知らぬ女性が声をかけてきた。
「あの、すみません。」
道でも尋ねるのだろうと思って時枝は立ち止まり、サングラスを外した。モブ・シーンのエキストラがにわかに現実感を帯び、時枝は、そのただ中に立っていた。
「あの、あんぱんマンってご存じですか?」
「え?」
「子供に人気のある正義のヒーローなんですけど。」
「一応知ってますけど、それがどうかしたんですか。」
「あんぱんマンは飢えた人々に自分の体を分け与え、自己を犠牲にして人々を救うのです。」
「…」
「あんぱんマンの本当の意味を皆さんにお知らせしたいんです。救い主キリストが最後の晩餐のときに、自分の血としてワインを、自分の肉としてパンを十二使徒に分け与えたのはご存じですか?」
それが、駅の近くだったり、その女性が手にボールペンでも持っていれば、時枝も最初から警戒したのかもしれないが、そこは駅の近くでもないし、彼女は何も持っていなかった。
「近くにヴィデオ。センターがあって、ヴィデオで分かりやすく解説しているんです…」
「結構です。」
時枝は彼女の言葉を最後までは聞かずにサングラスをかけ直すと、モブ・シーンの中へ分け入って行った。
測量士が歩いている。小突き回され、馬鹿にされ。他人の土地は隅々までも知り抜いて。
見覚えがあるようで…いつだ?…。空き地の向こうに、打ち出したままのコンクリートの壁を見せたビル…。白い空…、時間がよくは分からないナ。ボッと突っ立ていたってしょうがない、歩くか…。
色彩感に乏しい街だ。気のせいか行き交う人にも生気がない感じがする…
ああ、分かりにくい道だな。なんでこんなに不規則なんだ、まったく。
あの建物に皆が入っていく…。講演会? 入ってみるか…
覆面をした男が弁舌を振るってる。
「…さて、ここで諸君に強く言いたい。まず、ハイティーンの諸君、別に二十歳過ぎの人でも構わないが、恋人を作るならば、何と言っても白痴。これ以上に良い物件は『週刊住宅情報』を目を皿のようにして見つからない。勿論、『アルバイトニュース』でも無理だ」
どこかで聞いた声だ。…演題は……、「人智の墓場」…? ?「人智の墓場」…??
「白痴美に勝るものはない! おお!!これぞ不滅の新世界秩序だ。具体例として私と彼女との間の愛の会話を見て欲しい。場所は港の見える丘公園のベンチだ。
ビデオ、スタート」
男(うつむいて)「あ〜っ、だぁ〜〜ああ、だァ?」
女(赤くなって)「だぁ〜、だだっだァ〜」
男(涎を垂らして)「だ、だ、だぁ〜」
女(鼻水を垂らして)「だァ、あっ、アァ〜、だだっだァ」
二人(見つめ合って)「だだだだだっだ、だァ、だだっだあ〜」
「うむ、諸君らの感動がいかばかりのものか、察するに余りある。本当に感動的な会話だ。もはや、いかなる恣意的解釈をも受け付けないメタ言語による愛の会話…。21世紀は近い!」
勿体ぶった口調だ。どうしてこんな話を皆黙って聴いているんだ?
「白痴至上主義――これが、黄金律の第一であり、不滅の新世界秩序だ。ところが、ブルジョアになると人間を差し置いてペットに白痴させてしまう。許すべからざる所行ではあるまいか。人間様を差し置いて、ペットが白痴してしまうなど、人権蹂躪にも程があると声を大にして言いたい。
したがって、我々のスローガンは「人間優先の白痴づくり」である。進化の最先端であり、霊長類を自認する我々は、犬コロや猫に先を越されてはならない。哺乳類でも許せないのであるから、勿論、爬虫類・両棲類にも負けてはならない。当然ながら肛腸類にもである。
ここに、その目標を掲げよう。
1 安全で快適な白痴
2 思いやりのある白痴
3 連体性のある白痴
4 白痴文化を継承する白痴
どこかの宗教団体のように朝夕、手を合わせて、この目標を唱えていれば、メキメキ白痴化間違いなし。君も動物などに負けないで一生懸命白痴しよう。
さて、諸君らの中には、流行を追いかけるのに忙しい御仁も多いことだろう。『ポパイ』『ホットドッグプレス』はたまた『流行通信』を片手に、今日は原宿、明日は吉祥寺という具合に駆け回るのには、金がいくらあっても追い付かない。その上、ワンテンポ遅れた(と権威筋が認めた)服装をして、これまた、知ったかぶりして遅れた流行情報を得意げに披露して恥をかいた日には、目も当てられない。追いかけているから駄目なのだ、先取りしなくては。では何が流行るのか? ここまで話を聴いた諸君にはお分かりだろう。さよう、白痴だ。これにとどめを刺す。我々の合言葉は、
「愛しあってるかい」でも
「サイバーじゃん」でも
「だって、かわうそだもん」でもない。
「白痴ってますか」――これだ。これこそが新時代の福音だ。末法の世を救う唯一のお題目だ。
朝、目が覚めて、両親に「白痴ってますか」。登校途中に友人に会ったら「白痴ってますか」。会社に行って上司に一言「白痴ってますか」。みんな揃って「白痴ってますか」。
おお、街に響く「白痴ってますか」の連呼、これこそ、人類が有史以来夢見てきた理想郷、ユートピア、桃源郷、極楽浄土、パラダイス、天国、至高の王国、黄金の夜明け、ニルヴァーナ、千年王国、歓喜の世界、アタラクシア、愛の園、永遠の勝利、聖なる解放、万人イルミナティ社会、法悦境、アパティア、絶対調和共栄圏、エデンの園、高次の霊的進化… 否、否、否、三度否だ! 言い古されたいかなるレトリックも、この素晴らしい「白痴ってますか」連呼を修辞できまい。それほどまでに「白痴ってますか」は凄いのである。
皆が「白痴ってますか」と連呼しようが、旧態依然の旧人類は、旧態依然の旧式の価値観を捨てられない。我々は新たな価値転換、いや価値革命といおう、のために立ち上がらなければならない。
日本は民主主義国家である。我々は皆平等でなければならないはずだ。然るに、片や有名大学を卒業して一流企業へ、片や中卒、パート勤務…。これではいけない。すると皆で有名大学を卒業し一流企業に就職するという道もある訳だが、日本国民全員が大学教育を受けるとなると、金もかかるし、時間もかかる。よって、みんな揃って「白痴ってますか」がベストなのである。すなわち、病人も貧乏人も参加できる点が「白痴ってますか」のありがたい点だ。
誰が何と言おうと、民主主義は声の大きいのと数が多いのが勝利を得るのだ。皆で「白痴ってますか」と大きな声で連呼しよう。
言うまでもなく、教育は重要である。特に擦り込み教育。白痴教育の目標は先程掲げた四つである。この教育が実施されれば、家庭内暴力も校内暴力も無くなると断言しよう。近未来に実現するであろう会話をここに想像してみる」
教師(涎を垂らして)「だァ だだっだぁ…、あっ! だっだだ」
生徒(口をポカンと開けて)「だァ、だっだァ〜だ。だっだあ?」
教師(涎を垂らして)「だァだァだァだっだ。だ〜だっだぁだだ」
生徒(突然踊りだして)「だっ だぁ だっだ〜 だ だ」
教師(一緒に踊りだし)「だっだだァ だだぁ だ〜だぁ だ〜」
「これこそ真の教育と言うべきである。次は一家の団らんを見てみよう」
父親(笑いながら)「だァだっだだだぁ〜 だだあ だっだぁ あ」
息子(笑いながら)「だぁ? だっだっだっだァ〜 だだだ」
母親(それを見て笑いだし)「だだだだだ だァ だっだっだ〜」
娘(つられて笑いだし)「だっだァ! だっだぁ? だっだ^〜だだ」
一同(突然踊りだし)「だっだっだァ だだぁ だ〜〜〜〜 」
「何と仲睦まじい家族であろうか。うらやましい。しかし、これは、絵に描かれたモチでも、スペインのお城でもない。実現可能なのだ。皆で白痴社会実現のために白痴しよう。
在来、一切の社会の歴史は、意識の白痴化闘争の歴史である。一言にして言えば詐欺師まがいの識者と正当なる白痴者とが、古来、常に対立し、あるときは公然と、またあるときは隠然とその闘争を維持してきた。
しかし同胞よ時は来た。今こそ白痴の時代が到来したと私は告げよう。知識を持てる者が至高の白痴に至るのは、駱駝が針の穴を通り抜けるよりも困難である。
したがって我々は今こそさかしらな知識を捨てて、プロ白痴アートによる独裁を目指すべきなのだ。つまり、白痴至上主義の発展はプロ白痴アート独裁以外に進む道がありえないのだ。天の神々でさえプロ白痴アートを称賛するであろう。帝国主義の手先である共産主義を打ち砕き、地上天国を建設するのは「痴分けの儀式」を経た我等プロ白痴アートである。人類を全き迷妄から救いえるのは、この白痴原理のみである。
人類を知識奴隷制から解放し、対抗者を白痴づくで粉砕しなければならない。知識ある所、白痴はなく、白痴至上主義もない。これは自明だ。
起てよ、同胞、時は来た。今こそ攻撃的プロパガンタを実行しよう。これは正義の戦いである、聖戦である。異端者は我等が銃の前にひれ伏すだろう。さかしらな知識を振り回す劣等民族は殲滅されてしかるべきである。我等が血と大地の白痴名誉が彼らに汚されてはならない。進め、同志よ。奮い起て、万国の白痴主義者諸君! 今こそ白痴の白痴による白痴のための社会を建設しようではないか!」
拍手、拍手、拍手。覆面の男の話が終わると一斉に拍手が沸き起こった。皆あんな戯言を聴いて感心してるのか? あの男の言う白痴主義とやらにかぶれているんだろうか?
不意に誰かが耳元で囁いた。
「…セニョール」
! えっ
「さすが、セニョール、もうここを嗅ぎつけてくるとは」
振り向くとハラホロヒレハレと部下の男が立っていた。
「どういうことだ?」
「あ奴ですよ、ほら」
ハラホロヒレハレが指差すと、それに符合するかのように、遥か壇上の男の手が動き、覆面を脱いだ。
「み、水谷!」
時枝は、水谷と並んで歩いていた。
「時枝くん、今日は何か変だね」
「え? そうかァ」
そう言いながら時枝は自分の口に出す言葉の端々に何か釈然としないものを感じていた。夢がいけないのだ。あの夢のせいでわだかまっているのだ。水谷が悪いわけではない――と自分に言い聞かせても、それでそのわだかまりが消える訳ではなかった。
西口から東口に抜ける地下道に降りて行くと、乞食がハーモニカを吹いている。薄暗い地下道の真ん中辺りに蓙を敷き、その上に座っている。人が通るとぺこぺこと頭を下げる。びくびく、おどおどしたその振る舞いが、けばけばしいほどに切ないハーモニカの響きが時枝の目と耳を苛立たせた。
乞食の前を通るとき、時枝は軽く睨むようにそちらを見やった。
「あわれなこじきでございます どうかめぐんでくださいまし」
汚れた段ボールにぎごちない文字が並んでいる。乞食の顔を見る。乞食は視線を伺いながらも決して時枝と視線を合わせなかった。二人が通り過ぎても、二人の後ろで、精一杯に悲しいハーモニカのメロディが響いていた。
階段を上りきると、車道が開け、車が往来し、雑踏があった。ハーモニカの音はかき消され、そこではもう聞こえなかった。
横断舗道を渡って三つ目の角の喫茶店に二人は入った。眼鏡をかけた、四十がらみの男がカウンターの中で皿を布巾で拭いている。夜はカラオケ・スナックになるらしく、カラオケ・セットがカウンターの横にあり、天井には小さなミラー・ボールが吊り下がっていた。所々剥がれ薄焼けた壁紙、そしていつ流行ったとも知れぬその壁紙の模様。その模様の上を小さなチャバネゴキブリがちょろちょろと走っていった。
「何になさいます」
席に着いた二人に、多分カウンターの男の奥さんであろう人が尋ねる。
「ブレンド」
「僕も」
その女性の後ろ姿を見送ると時枝は水谷に話しかけた。
「なァ、乞食って確定申告するのかな」
「はぁ? …しないんじゃないか」
「あれって、職業だろ?」
「……職業っていうかな…」
「じゃ、あれは募金活動か?」
「そっちの方が近いような気がするけど」
「募金活動なら知事の認定書が必要なはずだ」
「何が言いたいの?」
「職業なら確定申告が必要だし、募金なら認定が必要だ。なのに、あの乞食はどちらもしていないみたいだってことさ」
窓の外の通りでは、どれも似たような髪型と服装の女の子たちが並んで、大きく口を開けて笑いながら歩いている。
喫茶店の中では名も知れぬ昔のポップスが流れている。
さっきの女性がコーヒーを持ってくる。二人は届いたコーヒーに一口つけた。
「まずいな」
「うん…」
水谷は他に言うことがなかった。
松葉杖の押し売り達がへらへら笑って右往左往している。まるで物理で習った気体の分子運動のようだ。
月もなければ星もなく、そして陽の光もない。しかし、暗くもなければ明るくもない、ぐにゃぐにゃの街。うねうねとだらだら坂を下って行けば、お人好しの群れが飼い殺される牧場が広がっている。
うっすらと空気の色が違う所、その先の屠殺場。お人好しの群れが嬲り殺される所。喜悦の涙を流す家畜。末期の夢に酔いしれる僕獣。
血の川を越えて沼地に入ると、ぼうぼうに伸びた草の陰で、子供達が骨にしゃぶり付いている。
陽は西に傾きかけていた。時枝は、夏にはビアホールとして使われる一角のテーブルに座っていた。柱の上の時計を見ると約束の時刻からもう3時間過ぎている。だが圭子は現われなかった。
別にずれてもいないサングラスをかけ直して、時枝は周りを見回した。夕方近くのデパートの屋上には、塾に行く前の小学生が数人、二三年前に流行ったゲームしか置いていないゲーム・コーナーで時間を潰している他は、見るからに住所不定無職といった男が缶ビールを飲んでいるだけだった。みな時枝から二十メートル以上離れたところにおり、互いに無関心であった。
時枝は、季節はずれのビアホールのテーブルから世界を眺めていた。11階建ての屋上から眺める町並みは所々ネオンがつき、これから来る夜を優しく迎えようとしているようだった。
内ポケットからジタンを取り出し、口にくわえ、マッチを擦る。一息吸って吐いたその煙が流れていく様を時枝は眺めていた。味などどうでもいい。風の中にかき消える煙を、ただ追っていた。
この前、圭子に自分が書いた「宇宙の双羽黒」を読ませたときのことだ。いつも自分を褒めてくれる圭子が、あのときはいつになく刺のある口調だったことを時枝は思い出した。
「どうだろう?」
称賛を期待して、確認のためだけにおざなりに尋ねた時枝に、圭子は冷たかった。
「何これ? 何が言いたいの? 解らないわ、私」
自分に心酔していたはずの圭子の予想外の反応に時枝は、冷静を装いながら、戸惑いを覚えた。その後、幾つか話題を変えながら、また会う日として、今日のこの場所を彼女が指定したのではなかったか。
結局、圭子は現れなかった。
部屋に帰っても圭子に来なかった理由を尋ねる電話をかける気になれず、時枝は、自分が書いた原稿を読み返した。
宇宙の双羽黒、或いは闇の産土神の帰還 時枝 希助
街が燃えている。ちりぢりの風景が宇宙に電話をかけるところへ。小人が雪崩のように走り出す。古い古い昔、君のかけらを抱きしめて、僕はこの地へやってきた。コンピュータは生理中。流れ出る血は濁流となって地図を飲み込む。街が燃えている。僕はそっと忍び込む。たった一つのときめき…。とても古い子守唄。君は炎の向こうで微笑んでいる。爆発したTVが笑いの渦に巻き込まれて。街が燃えている。僕は遠い星で待つ君のために唄おう。なだめられ、慰められてふにゃふにゃの伝染病。人間達の黄昏…。
街が崩れて行く。傷だらけの影を引きずって。ソドムの壊滅。地下室で生贄を捧げる場末の芝居小屋。炎の向こうで君が笑う。剥き出しの時計の刻む時に戦きながら、街が崩れて行く。なだめられ、慰められてふにゃふにゃの伝染病。風景が笑いの渦に巻き込まれる。
呪われた純潔のあふれ出る泉に向かって行進する。凌辱されるオートマトン。悲しそうな瞳が燃える街を横切り。傷だらけの生贄ひきずった、がらんどうの地下室。君のかけらを抱きしめて僕はこの地へ降りてきた。最果ての溶鉱炉で溶かされ溶け合って、一つになる君と僕。何度でも繰り返す、何度でも。…機械人形の動物園。
いつか見た夢…瓦礫の山での淋しい踊り。なだめられ、慰められてふにゃふにゃの伝染病。暗き鉄の牢獄。忘れない、僕は忘れずに帰ってくる。グロテスクな祈りが神経回路工学を使って。ソドムの壊滅。
袋小路の子守歌が聞こえる。うたかたのときめき。炎の向こうで君が笑う。人間達の黄昏。歪んだ宴を藁の手首が招いている。君の素敵な笑顔…遠い遠い昔、君と寄り添って…。猿真似のバビロンが笑いの渦に巻き込まれる。
思い出に泣きじゃくる小人たち。歴史の腐った内臓が陳列ケースに並んでいた。散り散りの風景が宇宙に電話をかけるところへ。叫ぶ小人を蔑みの目で横切る小人。深い深い遊園地へと飼い殺された小人の群れが行進する。街が燃えている。ソドムの壊滅。
鏡のような君。闇より迸る君。狂おしく燃え盛る炎の向こうで笑う君。小人の寄せ集めが奇型を祭る祭壇。獣の時間に悲しそうにしていたわらべ唄が、たった独りで影踏みをしている。
凌辱されたオートマトンがグロテスクな祈りと契った晩に野辺の送りを済まし。死んでしまった言葉。猿真似のバビロンが小人の寄せ集めをうっとりさせる時刻。剥きだしの骨さらし反復する時計。暗き鉄の牢獄。忘れずに帰ってくる。ソドムの壊滅。機械人形の動物園。
狂おしく燃え盛る炎の向こうで笑う君。僕の秘かな楽しみ。震えて眠る小人。ほんの少しのやすらぎ。他人の寄せ集めが間違いだらけの地図を握りしめ、辺境を歩く。罠のまどろみが冷たい指で背中をなでる。なだめられ、なぐさめられて、ふにゃふにゃのメモリー・バンク。行き止まりが裸で転がっていた。
街が燃えている。泣きじゃくる小人。グロテスクな祈りが怪物を迷宮から呼び出すところ。傷だらけの影引きずって、街が崩れて行く。
獣の時間に血まみれの劇場で弁論大会が行なわれる。古い古い子守歌を口づさみながら、すり替えられた約束に魅入られた。暗き鉄の牢獄を腐り果てた言葉がさまよっている。腐臭漂う言葉がさすらっている。世界が笑いの渦に巻き込まれ。
化け物じみた宮殿の中、どこまでも続く階段。震えて眠る小人。燃え盛る炎の向こうで君が笑う。他人の寄せ集めがしたこともない綱渡りを試みて。街が崩れて行く。壊れたラジオから聞こえてくる淋しいすすり泣き。宇宙が笑いの渦に包まれて。
何もない静けさの国で君が微笑んでいる。優しい君の素敵な笑顔。目もくらむときめき。帰ってくる。必ず帰ってくる。僕は、君のかけらを抱きしめて、この星へ忘れずに帰ってくる。
いるみがそのアルバイトに付いたのは水谷の紹介だった。このアルバイト先に既に数人紹介していた水谷に館長が人を探してくれるように頼んだのだった。最初は、希望者が居たら紹介すればいいと水谷は考えていたのだが、何度も催促され、遂には手紙で催促されるに至り、自分で探し出さなければならない状況に追い込まれた。
それまで水谷はいるみと会話を交わしたこともなく、彼女のことをほとんど知らなかった。彼女が就職できなかったことや、他にアルバイトを希望する人が居なかったこともあり、普通の人なら誰でも勤まる仕事だと思って、彼女に話を持ち掛けた。それが水谷の誤算であった。いるみは普通ではなかった。
面接の日、いるみは、およそ流行とは無関係な趣味の悪いコートを着て現われた。そのコートを着たまま館長室に入るいるみを見て、水谷は軽い不安を覚えた。
(部屋に入るとき、しかもこれから面接を受けようというときにコートを着たままでいるものだろうか?…)
館長の慇懃な口調に対し、いるみの話し方はまるで子供だった。要領を得ず、狎れ狎れしい。水谷はようやく自分の軽率さに気づいた。いるみは水谷など気に掛けず、はしゃいでいる。
(未完)
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