HM社編

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 自分に会社勤めが向いているとは思わなかったけれど、新卒入社は1回しかできないことだと思って就職活動。研究室の他の連中はみんな教授のコネで有名企業に内定をもらっていたが、ずっと勤める気などさらさらない私は教授の世話になると辞めたいときに辞められないと思い、自分で就職先を探した。(後の会社の後輩で、自分なら、教授の世話になったって辞めたいとき辞めますよ、後の人間がその会社入れなくなったって知ったことじゃないですか、と言ってのけた人物がいたが、私にはそう思えなかった)

 で、見つけたのがHM社。できたばかりのマルチメディア関係の会社だった。自分は大企業(大人数のところ)に勤めたくなかった。ここは14人程度ということで、自分にとって丁度よい規模であった。この規模で資本金1億円なら、そうそう簡単に潰れることはなかろうという計算もあった。赤坂御所の向かいの家賃がべらぼうに高いビルの中にオフィスはあった。その事務所の構え、社長が通産省の研究所所長経験者という外面の良さに私は騙されたのであった。

■私が配属されたのは制作局という部署だった。「局」なんて部署名を付けるところがまたバブリーなのですね。全社で十数名しかいないので、制作局には私の入社当時、3人しかいなかったが、平社員は私だけだった。私―主任―局長。(厳密に言うと、他にもいたが、一人は私の入社直後に退職。もう一人はC社〔後述〕からの出向社員で、対人恐怖症の中年の人。日常業務ではまったく関係なかった)それから人員は増えたのだが、平は私一人だった。私―主任―課長代理―次長―局長。

■この課長代理というのが、何の仕事もできない人間で部下(私と主任)の勤務報告書を1日かけて読んで、それが仕事になっているという具合。何も作っていないのだから、勤務報告書に書くことなどほとんどないのだが、書かないと課長代理が叱るのであった。バカらしい。

 この課長代理は、後に体を壊して田舎へ去った。何ひとつ仕事ができないのに、誰がやってもできない仕事を任されたからだった。

■当時、売り出していたF通のパソコンの業種団体の事務局運営がHM社の主な仕事であったが、結局、最後まで他の仕事はしなかったと言っていい。F通がお金を出すなら、うちでソフトを制作しますよ、という営業を延々続けた。

 実際に自分がF通に企画提案に行ったときには恥ずかしかった。言葉をどう丁寧にしようが、言ってる内容は「おたくが金を出すなら、うちがソフトを作ってやる」なのだから。そして、そのソフトの内容も、社長の小学生の娘が思いついたものとか、そんな類いのであったのだから、なおのことである。話を聞き終えたF通の部長が苦虫を潰したような顔で「仮にもHMさんも株式会社でしょ」と言ったとき、内心「ハイ、おっしゃるとおりです」と思ったものだ。

 そんな虫のイイ話が通るはずはないのだが、通らないという報告を受けると、「F通の上の方とは話をつけてあるんだから、なんでや」と社長は御立腹になる。

■入社してすぐに社長の代筆を頼まれた。コンピュータの専門誌である。以前、書いた原稿を元にしていいから、というので少し安心していたのだが、渡された書類は見た目は何種類もあったけれど、中身はすべてそれを遡ること4年前の原稿の焼き直しであった。頭がクラクラした。執筆依頼は新世代のマルチメディアうんたらかんたらという内容なのに。しかたがないので必死の思いで資料を集めてほとんど新規に書き起こした。

 その後、学会の紀要に載せる論文の代筆まで頼まれた。いい加減に書いたら、自分の名前が共著者として載ってしまって、「しまった」と思った

■入社してしばらく経って解ったことは、社長は全然、会社経営のことが解っておらず、会社ゴッコをしているのだということ。それを理解してもらうには、部長待遇で雇われた経理責任者が数日で退職したことを語れば事足りるだろう。

■「新しいことをやるんや」と社長は言いながら、その新しいこととは、どっかからタダで手に入るネタであり、しかも使い回しの効くネタという条件で探すのである。探している間は何も生産していないわけで、それでも家賃や社員の給料はじゃかすか出費しているわけである。で、結論から言うなら、そんなネタは見つけられなかった。通産省のお役人であった社長はタカリの癖がまったく抜けなかったわけだ

■製品の企画が何一つでき上がっていない一方で、会社らしくするために社長がしたこととは、社内の組織変更、社内のレイアウトの変更、朝のラジオ体操、朝の3分間スピーチであった。会社ごっこだ。レイアウトの変更は何度もやった。

■社長はもう一つ別の会社(C社としよう)の社長(どちらも雇われ)もしていて、そこの社員とHMの社員を互いに出向させていた。つまり、C社の社員をHMに出向させ、HMの社員をC社に出向させていた。面倒くさい。そういう複雑さが、なんか社長にとって会社っぽいことをしていると思わせることだったのかもしれない

■この会社で、後に電気グルーヴに参加することになる砂原良徳くんに会った。私もDEVOとかクラフトワークとかは聴いていたので、少しは話が合った。彼はC社に出向扱いになり、後にHMに戻ってきたのだが、戻ってくると彼の机がなくなっている(レイアウト変更とか出向社員の受け入れなどの繰り返した結果)。

「ボクの机はどうなったんですか」と尋ねる彼に、社長室長(←こんな役職があるわけね、たった十数人の会社に)は「机が欲しかったら、稟議書を書きたまえ」と真顔で答えた。

ろくでもないことに経費を使っているくせして、収益がないのは事実であり、それは夏のボーナスに反映された。話と違うじゃないかという額だった。

■製品を何ひとつ作っていないのに、次年度の新卒学生の獲得に社長は意欲を燃やした。豪華な食事・お酒付きの会社説明会を一流ホテルで開催したり。それから上質紙にカラー印刷の会社案内も作りました。バカだ。この会社で一番、私が罪つくりなことをしたと思ったのは、一応、会社側の人間として、説明会に来た学生を勧誘したこと。おまけに入社試験まで私が作ったのだった。あの時、採用された学生諸君、ご免な。でも、聞いた話では、会社の末期には、君らは出勤して、仕事もしないで近くのゲームセンターに繰り出していたというじゃないか。それで給料がもらえたなら御の字だろう。もっとも、会社にいてもする仕事がなかったかもしれないな。

■このままではこの会社は立ち行かないということで主任のN宮さんが中心になって実働社員のほとんどが参加した社長下ろしの謀議を居酒屋で繰り返し、親会社に直訴を決行した。無視されるかと思ったが、会長に会うことが出来た。場所は都内の高級ホテル。一代で年商500億の会社を作った男である。やはり迫力があった。親会社でも対応に困ったようだが、結局、すぐには対応できないと解って、私と前後して会社の半分ほどの人間が辞めた

■K野という人間は、イベント会場に持ち出した会社のパソコンを、撤収する際に自分ち宛の宅急便にして送りパソコン一式をくすめた。彼が辞めてからも、パソコンがなくなったこと自体、ずっと発覚しなかった。実働社員は知っていたんだけどね。

■F通のパソコン関連の団体の事務局運営に関連して機関誌を作っていて、唯一、それが制作局のレギュラーの仕事であった。社長はその団体の会長職もせしめていて(それだけで儲けられると思っていたのである=タカリ根性)、会長がいろんな文化人に会って対談するという連載を次長の発案で始めた。私が会社に在籍していた間の最後の対談の相手はサイバーパンク(今や死語か?)や欧米のカウンタカルチャーに詳しい武邑光裕氏であった。その前、数回の対談でも、社長は相手が違うからと思って毎回同じ話をした。同じ自慢話。でも、それじゃ連載にならないし、連載を続けて後に単行本を出そうという次長の計画だって成立しない。担当の私は結構、気疲れしました。

そして、武邑氏相手の対談でも以前と全く同じ話をする社長。もう辞めることを決めていた私は遊ぶことにした。対談の前に部長と私は武邑氏を取材しており、その時に結構面白い話を聞いていたので、対談の原稿を武邑氏の発言は、その取材の時に実際に武邑氏が話したことで作り、社長の話はすべてでっち上げた。そして、作家ウィリアム・バロウズのことを称賛していた武邑氏なら冗談が通じるのではないかと思って、対談の最後を「何か最後に一言ありますか」と向けた発言(これもでっち上げ)に武邑氏が「では、バロウズの『シティズ・オブ・レッドナイト』の一節から。『真実はどこにもない。すべてが許されている』」と答える(この発言だけは武邑氏が実際には語っていない)ことで締めくくった。社長はテキトーにしか原稿チェックしないので楽勝だったし、武邑氏サイドも何もクレームを付けて来なかったので、私のHMでの最後の仕事として、そのでっち上げ対談はちゃんと機関誌に掲載された。

■私が辞めて2年もしない内にHMは消滅した。結局、最後まで自社ソフトは何ひとつ制作しなかったようだ。社員が関連会社に吸収されて路頭に迷わなかったのがせめてもの救いだろう。

社長との対談に訪れた楳図かずお先生とHM社員一部
(前列ネクタイが私、向かって右手Tシャツ姿が上司のN宮さん)

★……M田次長のこと……★

 上に書いた出来事(これでも公にできる一部分だが)を読むと結構、長くいたと思う人もいるかもしれないが、私がHMにいたのは僅か6ヵ月であった。M田次長は私の入社より数ヵ月後に理工書の専門出版社から引き抜かれてHMに来た人だった。私が辞めると告げると「お前は俺が一人前にするんだ」と毎晩、酒に連れてっては引き止めてくれた。

 結局、私はHMを辞め、その後、住所も2回変えた。東京を去って地方の会社へ勤め替えする直前に、M田次長からの電話を受けた(会社はもうないのだから「次長」ではないのですが)。驚きだった。会社を辞めて6年ぐらい経っていたし、当然のことながら、連絡先も知らせていなかったからだ。M田さんは私を探し出して連絡をくれたのであった。「君に頼みたい仕事があるんだ」と言ってくれた。

 自分はもうすぐ東京を去るので、折角ですけど受けられませんとその時は答えた。私がその地方の会社に居るときにも、そちらに行く用事があるから会わないかと言ってくれたりもした(これはM田さんの都合でキャンセル)。

 そして、東京に帰ってきたときも電話をくれた。酒もおごってくれた。

 T氏に雲隠れされてにっちもさっちも行かなくなっていた私は、ダメで元々という考えで恥を忍んでM田さんに会った。すると「ちょっと待ってろ」と言って、その足で銀行に行き、30万円をその場で用立ててくれた。M田さんは私の恩人です
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