日誌2002年8月

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8月30日

職場の近くの銀行で、両手がカギの人を見る。昔のマンガで見るような義手。ハテナみたいなフックではなくて、クリップを折ったような形。失礼とは思いながら、興味があったのでしばらく横目で見ていた。両手の義手が一番目を引いたのだが、白い長袖シャツ、折り目正しいスラックス。Mr.オクレのような風貌であることも、大きな要因であった。なんか「出来過ぎ」という全体像であったのだ。

しゃがんでカバンを床に置く。それから、カバンを開く。カギだけで指がないので、何かを挟んで持つのは両手でないとできない。というわけで、両手でカバンを開け、両手で中からカードを出す。両手で挟んでカード口へ入れる……。

決まった作業のように淡々とこなしていた。

夜、仕事の後、母の所へ。裁判の報告をする。母の料理で夕食を二人で食べる。最近は寄るたびに、母はビールを振る舞ってくれる。

帰り道に、野村俊夫『報告書作成法』(日刊工業新聞社)を古本屋で買う。これも、テクニカル・ライティングの協会が必読書に挙げていたもの。安く出ていて良かった。


8月27日

会社を休んで裁判所へ。空港みたいに金属探知器を使っているのを初めて知る。考えてみれば当たり前か。

しかし、私などからすると、裁判所というと、正装とはいわないまでも、少しは人目を考えた服装で来るものではないかと思うのだが、茶髪・金髪でTシャツにローライズのジーンズ、しかも足下はサンダルという出で立ちの人も一人や二人ではなかった。常識が違うのだろう。

約束の時刻より早めに着いたので、地下の売店を見て回る。

待ち合わせ場所で待つが、待ち合わせの時刻になっても弁護士は来ない。約束の時刻を10分過ぎた時点で、弁護士事務所へ電話をする。もうすぐ弁護士は出廷するから、そのまま待っていて下さいという返事。

開廷の10分前になっても来ない。

隣では、弁護士らしい人が、自分の事務所に携帯電話で、依頼者が来ないが連絡してあるのかと困ったように話している。私と逆の状況か。

開廷5分前になってやっと私の弁護士は現われたが詫びはなし。私は25分待っていた計算になる。私の電話に応対した秘書本人が同行しているし、私の電話の後に事務所を出発したらしい。

裁判そのものは、あっと言う間に終わった。ほんとにあっと言う間。該当の席に呼ばれてからは2分もない。


8月20日

マニュアルの原稿を確認していると、ファイルの保存期限の説明に行き当たった。それが不思議なのだ。

保存期限の上限が書いてなくて、下限だけが書いてある。「17××年×月×日以降」とだけある。

このソフトが最初に発売されたのは、2年前の話である。

常識で考えて変ではないか、と思い、上司に尋ねると、答えはあっさりしたものであった。「ああ、それね、書かないことに決めたの」

ソフトそのものではなくて、OSの扱える日時で上限が決まるらしいが、それが一定でないらしい。そして、その上限となる日時(それが何年何月何日かは言わなかったが)は、当のソフトがとっくになくなっている時代だということで、書かなくていいことに決めたという。

それが西暦3000年だろうが、4000年だろうが、書いておけばいいではないかと私は思うのだが。書かなかったから、どこまで設定可能かユーザに解らないだろう。

一方、私からすると、下限が書いてある意味が解らなかった。保管期限を過去にするというのはありえないからだ。

すると、上司はまたあっさり答えた。

「このソフト、日付を設定できるところが少ないから、ここで日付の設定する人がいるのね。歴史マニアとかは、過去の日付を設定するのよ」

……それは、保管期限本来の使い方ではないと思うのだが。

よしんば、歴史愛好家を相手にするのなら、せめて、戦国時代より遡らないとダメだろう。江戸時代の途中からとは歴史愛好家に対応するにも半端だと思う。

上限にしろ、下限にしろ、ことごとく本質を外していると私は感じた。


8月18日

注文した品物が届いたというので、渋谷の無印良品へ行く。ついでに渋谷の本屋を散歩した。

Book 1stにいるときにふいに便意を催したので、トイレを探す。男子トイレは各階にあるわけではなかった。最初のトイレでは二人並んでいた。仕方ないので上の階に上がる。上った階のトイレでは、人は並んではいなかったが、使用中だった。そこで待つことにする。しばらくして空いたので、自分が個室を利用していると――、

「チックショー!」

という声が聞こえて、その後、何かが叩かれる大きな音、転がる音が聞こえた。用を終えて出てみると洗面台の横にあったゴミ箱がひっくり返って中身が散乱していた。

現場を見てはいないのであるが、どうも個室が使用中であったことに腹を立てて、ゴミ箱に八つ当たりして蹴飛ばしたとしか思えない。それが一番自然な推理であるのだが、だからといって納得がいったわけでもない。私がゴミを拾う義理もないのだが、ほったらかしも嫌なので拾う。その時、トイレに入ってきた人はギョッとしていた。

帰り道に古本屋で、市川伸一『考えることの科学』(中公新書)を買う。谷岡一郎『「社会調査」のウソ』で推薦していたのが購入の理由。


8月17日

ナコさんについての2ちゃんねるやゆあんさんの掲示板の騒動のことで暗澹としていた。

そんなこともあって、あゆみさんに電話してみた。居てくれて良かった。話してみると、あゆみさんは、ナコさんとメールのやりとりをしたことがあったそうだ。とても優しい人だったという。

いろいろ雑談。

掲示板の読者から「ジュンちゃんとは何?」という質問が来ているので、ジュンちゃんの写真を掲載していいですか、と尋ねると新たに写真を送ってくれるという。

電話の後に届いた写真の内の一枚↓

これが、あゆみさんの飼い猫のジュンちゃんです。私は、この猫を写真でしか知らないけれど大好きです。なんかエゴがなさそう。あゆみさんの話でも、彼女が飼っている3匹の中で一番年長であるのに、一番おっとりしているという話。あゆみさん、写真をありがとう。


8月16日

ナコさんというHNを名乗っていた女性が死んだらしい。

Yにとって一番気に入りの文章を書く人であった。
勧められて見たことがあったけど、イタくて私には読めなかった。

が、このナコさんは、私のリンク集にもある「ふらそこ」のゆあんさんの第一の親友でもあった。
ゆあんさんの掲示板で、ナコさんの投稿にレスをつけたことはあったけど、会話をしたことはなかった(向こうから言葉をかけられたことはない)。
ナコさんと私の関係を表現するなら、「友達の友達」というのが一般の表現だろうか。

ナコさんの彼氏による訃報とふらそこの掲示板にある、ゆあんさんの投稿を読むと、血まみれの浴槽で丸くなっている彼女を見つけたのは、彼女の彼氏とゆあんさんだった。

私のサイトの読者の多くには馴染みがないだろうけど、ナコさんはネットでは結構、有名だった人で、自身のサイトを閉鎖した後も、「ナコは今、どうしてる」という話題のスレッドが2ちゃんに立って盛んに投稿されるような存在でもあった。

今回の訃報について、ネタだヤラセだ嘘だろうという執拗な書き込みが2ちゃんでなされている。

ナコさんを直接知らないけれど、ゆあんさんのことを思うと、そうしたネタだろうという書き込みが腹立たしい。
何の権限があって、言うかな。
推理としてなら、何を言ってもいいと思うのかな。


8月15日

BookOffの100円コーナーで、谷岡一郎『「社会調査」のウソ』(文春新書)を見つけたので即買い。

前から欲しいと思っていた本。

写真の情報操作については、新藤健一『写真のワナ』(情報センター出版局)がある。『「社会調査」のウソ』はアンケートや統計の情報操作や嘘についての本。ろくでもない社会調査がまかり通っていることが解る。新聞の世論調査も、あんまり当てにならないことも解る。というか、同時期、ほぼ同主題の世論調査で、新聞によって結果がどうして違うのかが、よーく解る。

私個人としては、この『「社会調査」のウソ』と川上和久『情報操作のトリック』(講談社現代新書)は中学生・高校生に是非読んでもらいたいなぁと思う。


8月14日

所得税の還付金が入る。これでどうにか月末まで暮らせる。

小銭が入ったということもあってBookOffで以下の本を買った。

青山拓央『タイムトラベルの哲学』(講談社)

出口王仁三郎『霊の礎』(あいぜん出版)

篠田義明『コミュニケーション技術』(中公新書)

森巣博『無境界の人』(集英社文庫)

W・ダイアー『自分のための人生』(三笠書房)

それと、戸川純のデビュー20周年記念アルバム『20th Jun Togawa』を2年遅れで購入(前に不失者の名前ががBookOffの棚にあるのを見たことがあった。それに比べれば違和感はないものの、BookOffに戸川純を売る人がいるのだな、と変な感心をしていたのだが、後日、何枚も棚にもあるのを見て、個人が売ったものではないのだと考えた。少し侘びしい)。

『タイムトラベルの哲学』は永沢均氏が帯に文を書いていたから買った。出口王仁三郎は大本の有名な人ですね。『コミュニケーション技術』は、表題から想像されるような内容ではなくて、テクニカル・ライティングについての本。それ関係の協会が必読書に挙げていたので買ってみた。『無境界の人』は、新書店で立ち読みして面白そうと思っていたので迷わず購入。

『自分のための人生』を買ったのは何度目だろう。去年の夏、入院していたYに貸した本に入れていて、それっきり戻って来ないので買った。貸した本はどれも戻って来ていない。Yのそばにあるなら、それもいいと思っている。

戸川純のCDを聴いてみる。戸川純のファンではあったけど、これに定価の2000円は払えないと思う。自分の曲ではなく、本人の思い出の曲のカバーで、Phewの「終曲」だったり、パティ・スミスの「Because the night」など、私にとっても思い出深い曲が入っているのだが、いかんせん一本調子。残念である。

BGMを変えて読書。『タイムトラベルの哲学』は、本秀康の装画が秀逸(哲学書の寸評になっていないですな)。『コミュニケーション技術』は、必読書という感じは持たなかった。提言じゃなくて命令みたいで押し付けがましい。これなら樺島忠夫の『文章構成法』(講談社現代新書)の方が役に立つと私は思う。

『無境界の人』はやはり面白い。この著者の他の作品も読みたくなった。元編集者の常打ち賭博人である著者が賭博を絡めてよくある日本人論をブッタ斬りにしている。アウトサイダーという点では、宮崎学と似ているのかもしれないが、ケンカよりもディベートで勝負という感じ。

1日に4冊読むというのも久しぶりで、なんか幸せな気分だった。


8月13日

会社の夏休みの前の日ということで、出勤者は少なかった。夕方、サーバがニムダにやられたとかで、サーバを停止すると言われる。

というわけで、予定より早くあがることになった。帰ろうとして乗ったエレベータに、室長が後から来て、一緒に帰る。

ラーメンが好きだと室長は言う。菜食の私としてはできる話題ではないので、「好き嫌いが多いので、ラーメンは食べないんです」と答えたら、一発で「菜食主義か?」と言われた。なぜに判る? 派遣元の会社にさえ知らせていないのに。

話してみると、私の通勤路がまったく室長の通勤路に重なっていたので、最後まで一緒。途中から話もしないで黙って室長は座っていた。疲れていたのかもしれない。室長は私より遠い所に住んでいるので、自分の下車駅で「お先に失礼します」と言って私は電車を降りた。


8月11日

『神秘哲学』を今日届く便で発送したとのメールを古本屋から受け取ったから、出かけないで家にずっといたのだ。

が、もしやと思って郵便受けを見たら「不在配達通知」が入っていた。なぜ? すぐに電話して再配達してもらうことにする。

ま、この不在配達は、もしかしたら私がうたた寝してて気づかなかったのかもしれない。布団に横になって本を読んでいたからだ。配達員が言うには、何度もドンドンとドアをノックしたというのだが……。

届いた『神秘哲学』を見る。思ったよりはるかに美品。これで定価以下なら買い得であった。

夜、スチュワーデスのRから電話がある。久しぶりの電話だ。最初は「久しぶり」「元気にしてたぁ?」などと言っていたのだが、どうも歯切れが悪い。おまけに香港からわざわざかけているという。「間違い電話をしちゃってさぁ」と切り出して、それが本題であった。

4 月15の日誌にあることの再来。不倫相手の家に電話をまたまたかけてしまったのだ。

「メモリから消しとけって言ったろ」

Rが言うには携帯電話のメモリからは相手宅の番号を消していたという。手帳に名前なしで記入されていた電話番号が何の電話だか判らなくて確かめるためにかけてしまったのだという。私には信じられない。都内の番号ならまだ間違いようがあるだろうけど、その家はRが口を極めてド田舎だという場所なのだ。つまり、局番を見れば、地方だということが判るし、少し手間をかければどこの局番かも判る(私の持ってる手帳には全国の市外局番一覧が付いてる)。

そうした手間も推理もすっとばして、かけてみてから、その番号であることに気づき、向こうが出る前に切ってしまったというわけである。

それで――。

Rの頼みとは、またまた私がそこに電話して「あ、間違えました」と言って欲しいということなのだ。Rの頼みだから聞かないでもない。

しかし、私にはそれが意味のある行為だと全然思えないのだ。

その家には間違い電話が滅多にかかってこないから、電話をかけたのがRであるとすぐに気づかれてしまう、とRは怖がっていた。

「で、この前(4月)、電話してから一度も家には電話してないんでしょ?」

「うん」

「今日、かけたときも何も言葉を発してないんでしょ?」

「うん」

「じゃ、なんで、向こうがRだって気づくのよ」

着信履歴が残るのなら、私が芝居を打ったところで無意味だし、履歴が残らないなら、Rである証拠もどこにもない。

が、R以外にかけてくる人がいないと奥さんも相手の男性も考える、とRは強弁した。

「だって、間違い電話なんて絶対かからない所なのよ」とR。

「だったら、一日に二度、間違い電話があった方が変でしょ」

私は、前にRに相談されたときに、その男との関係を切った方がいいと助言したのだ。聞き入れるかどうかはRの自由だが、聞き入れずに関係を続けていて、間違い電話の工作を、私に頼むのは筋違いじゃないのか、とはっきり言った。お節介で助言したのではなくて、相談されての助言だったのだから。

もっともRの弁によると、愛人としての交際は終えて、今は毎日電話で話している関係らしい(相手の奥さんは、Rと電話で話しただけでも離婚と念する書をとっていたはずだが)。

「他に頼める人がいないんだもん……」

そんな押し問答をしている内に、時間は随分と経っていた。

「今から私がかけて『あ、間違えました』と言ったところで、さっきの電話と同じ人だとは思わないだろ」

「でも、かけてほしい」

他に電話をする用事があるから、「また後でかける」と言って、Rは電話を切った。

すぐにかかってくるのかとしばらく待っていたが、かかってこないので寝る。午前1時半に電話が鳴った。Rだった。

「さっき、『またかける』って言ったと思って……」

「確かに言ったよ。で、待ってたけど、かかってこないから、『また』は『また今度』という意味かと思ってた。そっち何時なの? こっちは今、午前1時半だよ」

私は半ば呆れていた。

その電話では大して会話もせずに話を終えた。Rは明日、他の人に頼んで、間違い電話工作をすると言っていた。

絶対に間違い電話がない所なら、二日続けて間違い電話がある方が変だと思うのだが……。


8月9日

「アエラ」に「幻の漂白民サンカ」とか題した記事が出ているのを電車の中吊りで知って、コンビニで立ち読みした。

6月の日誌に沖浦和光『幻の漂泊民・サンカ』(文藝春秋)を読んだことを書いた。サンカの第一人者とされていた三角の説はほとんど嘘だったという話だ。

このタイミングで「サンカ」の記事だから、三角擁護かと思ったら違った。本当のサンカである老人を見つけだしてインタビューしてた。が、三角が蒐集した「サンカ文字」を見せて読めるかどうか尋ねると、読めないと老人は答える。見たことがないという。

三角の説を記事の地の文では否定していないのだが、三角の養子だという人(現在、大学教授)の談話が引かれていた。オヤジが頭を抱えてサンカ文字を考えているところを見た、とか、自分で用意してきた着物をモデルに着せて写真を写してサンカの写真にしてた、とか言っていて、全体としては明らかに全否定。

職場は14日から夏休みなのだが、12・13日に休暇をとる人も多いので、夏休み前の最後の日と位置づけて大掃除なるものが行われた。

「大掃除」と聞いて、年末の大掃除並のことを想像していたのだが、これは名前倒れ、見えるところを雑巾で拭くだけで終了。これは私の感覚からいうと「大掃除」ではない。

そして、夕刻から「打ち上げ」。夏休みに入るから「打ち上げ」。のどかな会社である。喜ぶべきことなのだろうが。


8月8日

勤め先の近くに、赤い看板のローソンが出来て、いったい何だろうと思ったら、「ナチュラル・ローソン」という店名で、無農薬やら有機商品やらが置いてあった。
玄米おにぎり130円也。下手な自然食品店より品ぞろえがマニアックな部分があるけど、コンビニだからフツーのものも混ざっているのでありました。でも、職場の近くに、こういう店ができて助かる。

職場の社員食堂は月末精算という方式なので、現金がないときには助かる面もあるものの、味と分量からいうと全然割に合わないのである。何カ所かの社員食堂を使ったことあるけど、たとえばかけ蕎麦なら250円程度で、味は普通の蕎麦屋よりやや落ちるというのが私の認識である。が、ここのメニューには温かい蕎麦はない。汁をぶっかけた冷やし中華もどきのそばが500円弱。味はマズイ。それは数にも現われていて、お昼に社員食堂が満員にならないのである。社員数に対して、非常に少ない席数であるにも拘わらず。

というわけで、ナチュラル・ローソンでおにぎりでも買った方がずっとましなのであった。

しかし、ナチュラルを謳っていてもパスコのパンは買わないだろうなぁ。信用できん。


8月某日

地元のBookOffで、ライターのK藤さんにバッタリ会う。といっても、彼は、この町によく来ているので、それほど奇遇ということでもない。

知る人ぞ知るマンガ通・武術通。ライターで稼げない分は、整体で稼ぐし、家伝の武術を始め中国武術まで色々な流派を修得している。誰もが知ってるマンガの陰でマンガ家にネタを提供してきたそうだ。それを知らなければただのおっさんにしか見えないだろうが。

立ち話をしていると「I藤さんが亡くなりましてね」とK藤さんは言った。

「I藤さんって、どのI藤さんですか」と私は尋ねた。最近の人なら知らないからだ。

「D体力のI藤さんですよ」

「え…………、知りませんでした」

「いや、まだ公になってません。亡くなったのが●日前(←日数を覚えていない)ですから」

ぴんぴんと道場で指導していて、無理が利かなくなって寝込んだら数日で死んでしまったのだという。死因は癌だそうだ。健康法と武術で看板を上げていて、自分の体調の変化に気づかなかったのだ。これはまずいだろ。

一度だけ、そのI藤さんの無料講習会に出たことがある。外れだったから1回しか行かなかったのではなくて、毎回出たかったけど、生活にゆとりがなかったから1回だけになってしまったのだ。いい方法だと思った。武術家にありがちな尊大な態度は感じられなかった。失礼ではあるけれど、オカマっぽいと言った方が知らない人にはイメージが近いだろう。

「人間60歳代が最強だって言ってて、60になる前に死んじゃあねぇ……」とK藤さんが言う。

人の人生は解らないものである。


8月5日

職場では相変わらず作業がない。勉強しててという。ほぼほったらかしという毎日だが、この日は朝から会議であった。そして、夕方まで一つの会議なのである。8時間にも及ぶ会議。長い。

これは特別に長い会議であったが、「じゃ、ミーティングしましょうか」と言って始めると、簡単に2〜3時間経ってしまう。

文化が違うという感じ。

その特別に長い会議の最中に、この表記が不統一だが制作担当部は表記法を決めてないのか、と至極もっともな指摘が他部署からなされた。

それに対して私の上司の答えは、声の大きい部署や数の多い意見に合わせてきたので、決まった表記法はないというものだった。指摘をした人も憮然としていたが、私もちょっとこけた。決めるべきだろう。

内容についてはまだ判らないことばかりなので、私は表記のことだけ中心に、問題のマニュアルを見ていたのだが、こんなにあるのかというぐらい間違いや問題箇所があった。

マニュアル制作は普通の編集より用字・用語に厳しいのだろうと先入観を持っていたのだが、ここはそうではなかった。

巻頭文にも表記の不統一や点を打った方が良いのではと思う箇所があったのだが、「他のものにも流用している」という理由で直せないと上司はあっさり答えた。

また、「2バイト文字」「64k色」という表現があったので、「全角」「64000色」と書いた方が、ユーザに親切なのではないかと尋ねたが、設計部署から上がってきた表現だから直さないという。わからん。


8月4日

ドアがノックされる。そのため玄関の方に歩いていった。向こうが名乗らなければ不用意に「はい」などと応えない。

ドアスコープから外を見ると、郵便配達夫が去っていくのが見える。ドアを開けて外に出て郵便受けを見ると、不在配達通知が入っている。

まだそこに郵便配達夫が見えるのだ。これで再配達だの、取りに行くなど面倒だ。「すみませーん」と私は声をかけた。アパートの前の私道は狭く、他に人はいない。10mも離れていないのだから聞こえないはずがないし、他の人を呼びかけていると勘違いするとも思えない。が、郵便配達夫は止まらなかった。もう一度声をかけたが、こちらを一瞥したのに、私を気にも留めず、オートバイに乗って配達夫は走り去った。

「何だ? あの配達夫は」

小馬鹿にされたような不快感を私は感じた。

受け取り場所の本局は24時間営業なので、日付が変わった5日の0時過ぎなら受け取れる。不在配達表を受け付けに出して、配達夫に無視された旨を私は告げた。

受け付けの人は恐縮して応対したが、表の日付を見て、これは一昨日の晩に入れられた不在配達表ですね、と言った。日付と時刻を見ると確かにそうだった。

つまり、9日の晩に私が郵便受けを確かめるのを忘れたということだ。

が、すると私の部屋のドアをノックしたのは誰だったのか? 音がしてすぐに外へ出て、見たのは配達夫だけだった。

新聞の勧誘か何かがうちのドアを叩いたのなら、うちの前にいなくても隣か上に、それらしき人がいたはずだろう。実際には、うちのアパートから離れつつあった郵便配達夫しかいなかった……。

あの状況で、自分に声をかけていると思わない人というのも相当変であるし……。配達されたものは受け取ったが、謎は謎のままだ。

昨日会えるつもりが会えなかったゆあんさんであるが、ゆあんさんの掲示板を見ると、ご免なさいと私に謝っていた。「掲示板に書く前に私に直接、連絡あると、ちょっと良いです」とレスを付けたら、もう一回、掲示板で謝られた。直接の連絡はなかった。

鬱がひどくなったのが原因のようだった。鬱がひどくなると外出したくなくなったり、億劫になったりするのはYで体験済みでもあり、鬱と診断されなくても私にも思い当たることはある。

都合がついた時に会いましょう。

ここ数日、井筒俊彦の『意識と本質』(岩波文庫)を再読していた。いや、再読のはずなのだが、内容を全然覚えていなくて唖然とした。

そして、つらつらとネットの古本屋で検索をしていたら、井筒俊彦の『神秘哲学』2冊揃いが3千円で出ているのを見つけて注文した。大学生の時には新本で買って持っていたのだが、いつだか売り飛ばしてしまったのだ。本の価値が判らないというのは情けない。


8月3日

ゆあんさんとネット上で会ったのは、もう2年前のことだが、同じ都内に住んでいても会ったことはなかった。取り立てて会う用事などないから、ある意味、当然でもあった。今は、彼女の実家の最寄り駅を通勤で毎日、通過するので、「気が向いたらお茶しませんか」とメールを私は送ったのだ。

それに対して、ゆあんさんは、土曜日のお昼でどうですか、とメールではなくて、自身の掲示板で答えた。日にちを書かずに土曜と言えば、一番近い土曜日、つまり3日のことなのだろうと私は思った。

待ち合わせを決めようと2日の晩に電話しても通じなかった。「何時でもいいから連絡下さい」と留守電を入れたが、朝になっても連絡はなかった。

日が高くなっても携帯電話は留守電である。自宅で連絡を貰って移動するより早かろうということと、ちょっと買い物をしたいという考えもあって、渋谷に出かけた。

買い物は済んだが、ゆあんさんと連絡はつかなかった。連絡がつかなければ待ち合わせはないものと考えるのも一つの考え方だが、会う前提で待つというのも一つの考えである。私は後者の考えをとった。

買い物は済んだが、会う前提では一旦家に帰ったら無駄足になる。というわけで、マンガ喫茶で時間を潰すことにした。入会なしでネットを利用できるゲラゲラに入る。電話でなく、メールで連絡が来るかもしれないと思ってのことだ。

鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』『マカロニ2』全巻を読了。連載当時、好きだったマンガで、再読して色々考えさせられる。

読み終えると時はもう「昼」とはいえない時間帯になっていた。何があったか知らないが、今日は会えないらしいと思って、帰ることにした。

が、人に会うつもりで出かけて誰にも会わずに帰るというのも何か物足りなかったので、ジェシカに電話してみた。1時間後に会う約束をする。約束の時刻に少し遅れてジェシカは現われた。

その日の雑談で彼女の身長が正確には175cmであることが知れた。元モデルと知っていてもやっぱり高い。そして、前とは違うと思うがやはりお香の香りがした。「いい香りだね」というと照れ臭そうに「アリガトウ」とジェシカは言った。

楽しい一時。

帰りしな「だ〜い好き」と後ろから抱きついてくれたのは顔施か何なのか。でも嬉しかった


8月1日

面接に同行した派遣会社の営業の人が、勤め始めての近況を知りたいということで、一緒に昼食をとる約束をしていた。

近くのビルにあるパスタ屋の「前で」待ち合わせとの約束だったが、営業の人は、気を利かせてそのオープンテラスの店で、先に席をとっていた。水のコップもサラダも既に並んでいる。

それが問題なのである。その店は昼間はランチのメニュー4種ぐらいしかないのだが、それがみんな玉子か肉か使っているもので、野菜だけのものは一つもない。つまり私が安心して食べられるものが何もない。

その営業の人は、私がどうしてメニューを眺めて決めあぐねているか判らなかっただろう。仕方がないので、食べられないものを一番除けやすい品にした。

会話を終えても、私がそれらを除けていることには全然気づかなかったようだ。サラダの皿を下げるときに、「これも下げて下さい」と言ってパスタの皿を出したとき、具のほとんどが皿に残っているのを見て、やっと気づいた。

口に合いませんでしたか、と尋ねるので「いえ、好き嫌いが非常に激しいんです」とお茶を濁す。

御馳走になったのにすみません。

夕方、5時に仕事場を後にして、新宿へ向かう。

紀伊国屋で月月さんと待ち合わせて、喫茶店に入った。京都土産に、こだわりの金平糖を貰う。ご馳走さま。

色々歓談。月月さん、ありがとう。


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