日誌2002年5月

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5月31日

夜、新宿を歩いていると、青梅街道の陸橋でとあるジャズトリオが演奏をしていた。前から時折演奏をしているらしいのは知っていたが、今日初めて立ち止まって聴いた。やっぱり生の音には力がある。白熱した演奏が続く。私の右隣にいた白髪交じりで折り目正しいスーツ姿のおじさまは演奏の合間に「マイルス! イェーイ!!」と間の手を入れた。なんか良かった。

陸橋の下では、アニメソングのような歌を歌っている二人組がいた。曲は私の趣味ではなかったが、歌はうまかった。人の声というものはどんな楽器よりもやっぱり人に一番届くものなのだなと思う。渡されたチラシを見ると、メジャーからもCDを発売しているのに、自分らの事務所を持ち、自分らのレーベルを持ち、路上限定販売のCDを売っているという。路上販売だけで3000枚。見上げた姿勢だ。「『こんな私でも……』『こんな僕でも……』 そんな人達への『パワーの源』となるような楽曲を作り出すのが2人の願いです」ともチラシにある。「カッコ悪」、「ダサイ」とかいう批判もありそうだけど、本当にそう願って歌っているんだなと私には思えた。エールを送りたい。

IMさんから「w(@o@)w超個人的緊急速報!」と題するメール。何事かと思ったら、痴漢にあったけど、同行していた日本人男性が、犯人のインド人を捕まえて警察に突き出したという話。今はバラナシ(日本だとベナレスと表記する慣例あり)にいるという。行く先々に日本語環境のあるパソコンはあるのだな。

バラナシというと、聖なるガンジスで死を迎えたい人が死ぬまで滞在する町でしたよね、と返信を送った。


5月30日

廃品回収業者が巡回していたので、テープが入ったまま再生も取り出しもできなくなってしまったビデオデッキを回収してもらう。ゴミに出すよりは気が楽になる。

本屋で普段、見ない棚を見ると吾妻ひでおの絵が目に入る。復活「スクラップ学園」とある。富士見書房発売の「コミックドラゴンHG」という雑誌。ふーんと手に取ったら、風忍の「地上最強の男 竜」が載っていた。20年以上の歳月を経ての「竜」。なぜに今と少し当惑。

この前はこの前で、「伝説マガジン」でジョージ秋山の「デロリンマン」が新連載されたのや、「妖怪人間ベム」が30年の歳月を経て、初めて単行本化されたのも妙な感慨を持ったのだった。

20〜30年前に漠然と思い描いていた21世紀には、こんなリバイバルがあるとは思っていなかった。時間軸が拡散しているような感じ。


5月29日

商店街を歩いていると怒号が聞こえた。喧嘩かなと思ったが、声のする方を見ても取っ組み合いをしている人間は見えなかった。

はてと思うが、怒号はあい変わらず聞こえる。近づくと、道端で壁によっかかっている野球帽に白いシャツのおじいちゃんが一人で怒鳴っていた。

「ぶっ殺すぞ! おい。ぶっ殺すって言ってんのが聞こえねえのか、こらッ!」

酔っぱらっているらしい。特定の相手に怒鳴っているわけではなかった。

「包丁を持ってるんだからな。刺すぞ、こらッ」

目を合わせたら殺されるかも知れない、足早に通り過ぎたら却って刺激してしまう、そんな空気がびりびりしているのに、見た目はみんな何もないかのように普通の速さで移動していた。もちろん、おじいちゃんの方は全く見ない。みんな、そのおじいちゃんと目を合わせないように無視して歩いていた。ここでおじいちゃんが本当に紙袋から包丁を取り出したら、通り魔殺人になるんだろう。

幸い少なくとも私が通りすぎるまでは、口で怒鳴っているだけだった。でも、いつキレてもおかしくないなと思った。

夕方、とある人から「感謝しております」というメールが届いた。ちょっぴり気分が明るくなった。


5月27日

演劇をやっているK畑さんから案内が届いた。今、上演中らしい。彼女には何年会っていないだろうか。「オバQ的な努力の人」というのが私の彼女に対する人物評である。初めて会ったときは彼女は東京に出てきたばかりだった。もう10年経つ。劇団でも古参になっただろう。

東京に帰ってきたときに、数十人に帰ってきた旨、手紙を書いたが、返事をくれた人がほとんどいなかった。電話で報せられるほど話のしやすい人には電話で話したので、手紙を送った相手はそうでない人たちではあったけど、一抹の寂しさは正直覚えた。東京を離れている間にも年賀状を送ってくれていた人数名も、私が帰ってきたという報せにはまったく反応しなかった。

K畑さんも帰京報告を送ったのに返事がなかった一人だった。もう付き合いたくないということなのだろうと一応受け止めた。それから1年ぐらいして、K畑さんから劇の案内をもらったのだ。案内に添えられたコピーの手紙を読むとしばらく演劇を離れて、苦悩していたらしい。それで返事をしなかったのかなと憶測してみたりもした。その案内に彼女のメールアドレスが書いてあったので、「返事がないから、私のことを忘れたのだと思ってました」云々とメールを送ったが、これも返事がなかった。

それでまた今回、劇の案内が届いたのだ。彼女のことを悪く言うつもりにもなれないのだが、どういう心理なのかよく解らない。

まったく別の件だが、演劇つながりで――。

帰京したときに会いたかった一人に、K畑さんとは違う劇団であるが、やはり演劇をしていたマルオカさんがいた。学部は全く違うが大学の後輩でもある。繊細な一面もありながら豪快な女性だった。一人暮らしを始めましたと案内をもらったときの電話番号に電話をかけたが、もうその番号は使われていなかった。劇団の案内を見てみると、彼女の名前は見当たらない。しかし、彼女のいた劇団は同じ大学の演劇サークルの人間が大量に流れていたので、他にも知っている後輩がいた。だから、その人にマルオカさんの連絡先を尋ねたのだ。

返ってきた手紙を見ると、彼女の連絡先については一言も触れず、劇の案内だけが入っていた。この時も神経を疑った。「知りません」とか「教えられません」なら、まだ解る。尋ねたことにまったく答えずに、「今度、上演しますから是非見に来て下さい」と言えるのが解らない。

会話はいいから、とにかくチケットをさばかなければという考えなのか。何なのだろう。

でも、こうした意想外・予想外の反応は、人間の常識だったり固定観念、自分の感情の動きを学習するのには役に立ったりする。


5月26日

嬉しい文章を見た。そんな感じでいつも文章が書けるといいなと思った。しかし、仕事は進まない。

このところ、外で例の白黒ブチのネコに会うことが多い。植え込みからニャーと現れ、私の後を付けてくる。私がしゃがむと私の膝に自分から乗る。なんでこんなになつくんだろう。しっぽも曲がっていて、雑種のネコだけど、可愛い。

ふと思うと、最近、野良猫のボロを見かけない。ボロはどうしたんだろう。


5月24〜25日

ヨガを習う。人に習うのは初めてだが、中学生の頃、藤本憲幸の本で自習していたことがある。

自分が通っていた小学校は不良と呼べるような連中は多くなかったが、中学校になると他所の小学校の卒業生と一緒になる。一緒になった所というのは、小中学生のときから恐喝や万引きが日常茶飯事、時には放火もしたというやさぐれたちもいる所で、中学生になってそれまでバカにされなかったことでバカにされるようになった。

「鼻なしー」「カエルー」と彼らは私をバカにした。小学校では自分の容姿をバカにする人はいなかったので、カルチャー・ショックだった。イジメというほどでもない。そんな意識もなく「鼻なしー」と私をからかった。

当時から本屋に通うのが好きだった私は解決策を本屋に求めた。駅ビル6Fにある本屋の棚を見てまわり、1冊の本を買った。それが藤本憲幸の本で、題を『秘密のトレーニング』といった(笑)。目次に「鼻を高くするヨガ」というのがあったから、それを買ったのだ。それを毎日やって、いつしか誰も私を「鼻なし」とは呼ばなくなった。今も付き合いのある人は高校以降の人ばかりだから、私が「鼻なし」と呼ばれたといっても、ピンと来る人はいない。ちなみに記念に今もその本は持っている。

OJと渋谷の大戸屋で食事。良かれと思ってのことなんだろうけど、説教好きなのが少し辛い。別にこちらが反論しているわけでもないのに、ずーっと教示する。

渋谷駅でOJと別れ、その後、智禾さんのところに向かう。この時が0時過ぎぐらいだったと思う。智禾さんの所で飲み会。今年は花見がなかったから、飲み会は久しぶりだ。ぶるまんさん、しょうたさん、平野さんが参加。途中から話より、智禾さんがよくやっているらしい、インターネットのしりとりばかりやっていた。

朝になって平野さんと一緒に帰る。

帰宅してメール・チェックすると、インドにいるIMさんからメールが来てた。

彼女から送られるメールを日誌に引用したいと打診したけど、面白いので返事がないまま無断引用していたのだ。

それに対する返事。

--〔引用開始〕----------------------------------------------------------

少しだけ日誌覗きました!
私の稚拙な文章でよければいくらでもお使いなさい!
菩提樹の写真はまだとってないけど、撮るので見せれると思う。
また紀行送るぜ!

--〔引用終了〕----------------------------------------------------------

外地から最初に彼女のメールを受け取ったとき、カンボジアのネット・カフェに日本語環境のあるパソコンがあるのかしらと疑問に思い、メールで質問したのだけど回答はなかった。行く先々に日本語環境のあるパソコンがあるのか? なんか不思議。


5月23日

ネットで検索していたら、私が以前お世話になったT木先生のことを話題にしている掲示板を見つけた(T木先生については、「日常の断片 2」の「壊れた人」でほんの少し言及している)。

そこで指導を受けて、精神病送りになった人がいるという噂があると書き込みあり、それだけなら噂でしかないのだが、精神病院送りになった当人が書き込みしてきて、そこに投稿していた他の人に「あなたも、あの時、その場にいましたよね」と確認をとった。問われた相手はそれを認めた。

秘儀として行われたのは、正体不明の薬物の摂取で、その彼は帰宅後、半狂乱になり、結局社会復帰するのに2年の年月を要したという。こうしたことを行う際、現在では多くの場合、式に先だって念書を書くものだ。何があっても訴えないなどなど。そこで交わされた念書の文面は明らかにされなかったが、念書を書いたことは、その人も認めた。が、そうは言っても、指導したT木先生にも責任があるのではないかというのが、彼の主張であった。

社会復帰に2年というのは確かに重たい。複数の人の書き込みをまとめると、T木先生は、半狂乱になった彼について「低級霊に取り憑かれたようだ」「私が鎮魂の舞いをしておいた」などと説明したが、当の本人には一切連絡しなかったようだ。

自分が知っているT木先生は、愛想はないけど曲がったことの嫌いな一本気な人だった。そのT木先生と、その掲示板で非難されているT木先生は、私にとっては重ならなかった。

でも……と思う。最初は指導の中身は割とボディワークの比重が多かったはずなのに、やがて鎮魂帰神法やシャーマンの技法などが増えていって、違和感を覚えたのだ。瞑想法だったものが霊術へとシフトしていった感じ。

T木先生ほどの境涯になっても、堕ちるということはあるのか――。それは想像することは私には憚られたし、また恐怖すべきことであった。

ダークな気分になった。

夜、用事があってOJに電話。会話をしていてVのことが話に出る。最近、彼と全然話していないと私が言うと、OJはついこの間、話したと私に言った。なんでも、安い都営住宅に越したいけど、独身者用は倍率が高いので、Vに一緒に住む人として名前を貸してほしいと頼んだという。居住者二人合わせての年収の上限があるので、確定申告をしていなさそうなVに頼んだのだと。Vは断ったようだ。久しぶりの会話がそんなのだったら、Vもあんまりいい気はしないだろう。それ以前に、VはOJのことをとんちんかんだと思っているのだから、尚更である。


5月22日

夢を見た。

OSHOのような老人が質問をして、私は爪を変えればいいと答えた。それは正解だった。
何を訊かれたのかは覚えてないのだが、死ぬのに比べれば爪を変えることぐらい何でもないと夢の中の私は思っていた。
答えた後、私はテレホンカードを足の爪に当てて、形を写し取っていた。OSHOのような老人の横には、その腹心と思しき男がいた。その男の爪を見ると金(ゴールド)であった。
「お前のことを知っていて、お前がそいつの住所を知らないという奴はいるか。
決して、このことをもらしてはならない」 二人のうちのどっちかが念を押した。
該当する人間は私自身が始末しなければならないようだった。
「そんな人はいません」 全然思い当たる節がなかったので私は即答した。
周りに人も何人かまばらにいた。なんとなく前近代的な傭兵部隊ような感じだった。
私は、その腹心のような男の金の爪を見て疑問が湧いたので、ちょっと場所を変えて小声で尋ねたのだ。
「それは(金属)探知器にはひっかからないのですか?」
「ひっかからない……」 男も小声で答えた。
すると、もっと離れた所にいたイタリア人のような陽気な男が講釈を始めたのだ。
「防弾チョッキでもそうだが、……と……を組み合わせてコーティングすることで探知器にひっからなくなる……」
爪が金の男はキッと顔が険しくなり、銀のナイフを抜いたかと思うと鞄に隠して、そのイタリア人風の男に近づき腹を刺した。腹部でぐりっと刃を回し、すぐに抜くと今度は左腕の動脈を奇麗に切った。
その間、わずかに0.何秒。血糊の海に沈んだイタリア人風の男の前に私は走っていってひたすら頭を下げた。
「ごめんなさい。私があんな質問をしなければ、こんな目に遭うことなかったのに。ごめんなさい」
死んでいってしまう、その男から一言でいいから許しが欲しかった。許しをもらう前に眼が覚めた。いやな夢だった。

夜、7年越しの文通相手(でも、顔も声も知らない)Sからメールが来た。4月になったら引っ越しますとメールをもらったまま連絡がなかったから、引っ越しが済んでいたら住所を報せて欲しいと私が打ったメールに対する返信。栃木に越したようだ。今までも会ってないわけだけど、さらに遠くなってしまった。


5月21日

カニノフチさんの事務所を後にして新宿へ出る。ベルクでコーヒーを飲む。ここは好きな店だ。

宮沢りえ主演の映画『華の愛』を観た。収入の入る直前に映画を観る余裕など普段ならないのだが、前に月月さんと一緒に『修羅雪姫』を観たときに、上映の不手際(上映中のスクリーンにカーテンが閉まりかかった)があって、お詫びの徴に、映画館が無料入場券をくれたのだ。今日、それを使って映画を観た。
別に宮沢りえのファンでも何でもないのだけど、日常の流れを一旦遮断したくて映画を観た次第。
感動するとかそういう作品ではなくて、ただただ眼で鑑賞する映像。彩りは奇麗だった。
で、上映中に今度はフィルムが途切れること2回。1回目は1分強、2回目は2分弱。
上映不手際でもらった入場券で来て、またこれかいと少し苦笑。前よりひどい不手際なんだからと少し期待したら、今度は言葉のお詫びだけで、お詫びの徴は何もなかった。意味がありそうな連鎖だけがあって、期待は外れた。

インドに入ったIMさんからメールが来る。

--〔引用開始〕----------------------------------------------------------

どーも!皆様こんにちは。ただいまインド11日目です。カルカッタより入国3日後、
暑さにて昇天。動けぬ人となりました。しかし、空港にいた私以外の唯一の日本人を
未だ拉致状態。鉄道チケット、飯、ホテル、乗り物の交渉、全てを委ね、パトナーを
経て、只今ブッダガヤーです。少しだけ動けるようになりました。さっきブッダが悟
りを開いた菩提樹を見にいきました。まわりの建物や仏像にネオンがあり、ややパチ
ンコ屋よりの模様。そんな悪趣味の中、菩提樹は健気にそびえたっておりました。幹
を抱きしめ生命力を分けてもらいました。そのせいか、犬にずーっとつけられっぱな
しです。そしてこの謎の下痢はいつ回復するのか..。

--〔引用終了〕----------------------------------------------------------

海外旅行には何の憧れも持っていない私だが、釈迦が悟りを開いた場所には行ってみたい。菩提樹の写真を撮っていたら、帰国した後、見せてほしいとIMさんにメール。でも「ややパチンコ屋よりの模様」ってのが……。


5月19日

この日も異様に眠くてずっと横になってうたた寝をしていた。

前に外で出会って撫でられ放題になった白黒ブチの猫が、今日は私の後を付けてきて、うちまで来ました。
後を付けてきて、うちまで来てくれた猫は初めてかな。


5月18日

ディクシャ。先生は私が座ると「あなた、立派な体格してるわね」と言った。意外だった。式の後は異様に眠くなり、帰宅してずっと寝ていた。


5月17日

頼みごとがあったので、SMさんに会う。彼女の最寄り駅で待ちあわせ。立ち話もなんだからと駅にあるスターバックスに入るが満席だったので、彼女の誘導で駅の近くの喫茶店に入る。今日のコーヒーというものが、その店にはあるらしく、二人ともそれを注文した。2階にも席はあるのだが、私らは1階席に座った。オープンキッチンだし、店舗の形は平面図で描けば長方形であり、つまり見通しは非常にいいのである。用件も話し、雑談もしたが、コーヒーは出てこなかった。

アルバイトの女の子。コーヒーを煎れている若い男性。店のオーナーと思しきおばちゃん二人。計4人から見える場所にSMさんと私は座っていた。それとなくSMさんはわざとキョロキョロしてみたりした。用事があるというSMさんは、これ以上待てないということもあって、おばちゃんに私が尋ねた。

「もう時間がないんで、まだコーヒー煎れてないなら、このまま出たいんですけど」

「アラ、まだ注文とってなかったのかしら」とおばちゃん。

「いや、注文はしましたよ」

と私が言うと、アルバイトの女の子は「あっ!いっけな〜い」という表情をして見せた。受けた注文を、コーヒーを煎れる男性に告げなかったんだろう。でもさ、4人から見えるところにずっと私たちは座っていたんだよ。

店を出て、SMさんが「なんで、気づかないんでしょうねぇ」と不思議がった。確かに変だよ。

SMさんは7月にはヨーロッパ旅行に行って、パリでIMさんと再会を果たすという。なんか知らんがワールドワイドだ。


5月15日

TVをつけたら、『月の魔力』で有名なリーバー博士が出ていた。顔は初めて見た。
このリーバー博士のバイオタイド理論って、山本弘氏が、トンデモ学説だと糾弾していた代物。
山本氏に掲示板で言及したのと同じ日に見るのが、シンクロニシティっぽいと思った。


5月14日

この日、宇宙開発事業団から日誌にアクセスがあった。アクセスされたページからすると、月面疑惑以外のことで辿り着いたと推察された。一体、何だろう?


5月13日

ホテルは高くつくしと思って24時間営業のマンガ喫茶で夜を過ごした。宮崎のマンガ喫茶からYの掲示板への最後の書き込みをした。24時間営業なのに、私以外の客はおらず夜通しほとんど一人だった。変な感じだった。

次の日も宮崎は快晴だった。朝、カニノフチさんの事務所に電話し、納品を1日遅らせてほしいと告げる。

宮崎駅から空港に向かうバスに乗っていて、二人でYの実家の墓参りに行ったときの道はここだろうなとか思い出した。宮崎空港から1時間半で羽田空港。東京は曇天だった。

昼過ぎに帰宅。夕方、月月さんが見舞いに来てくれた。ものすごく濃密だった2日間について話す。見舞いに来てくれて、ありがとう、月月さん。

どうした経緯でこのサイトが出来たかについての「エピソード1」を知っているのは、今のところ月月さんだけだ。「エピソード1」を明かすことはできないが、「 日常の断片 1 」「日常の断片 2 」の中身の多くはYのページに私が投稿したもの、あるいは彼女に送ったメールの文章であったことを書いておく。一生のソウルメイトと私を呼んでくれたYにありがとう。

うちに遊びに来たときのY


5月11〜12日

「機は熟しましたよ」と言われ、決心とか決意とかいうほどのことでなく、進路は決まった。セールス・トークというものも一般にはあるだろうが、その時、それがセールス・トークとは私は思わなかった。一つの信号と受け止めた。ただ過大な期待は抱かない。それがいい。が、大きな転機であることは間違いがない。

OJと渋谷で食事をしながら話す。新宿駅で笑顔でOJと別れ、特に大きな前触れもなく決まってしまった転機について、一人で考えながら帰宅した。そしてパソコンを立ち上げ、Yのページの掲示板を見ると、目を疑う書き込みがあった。

> たった今・・・哀しいお知らせがありました
>
> 今日夕刻、ゆみこさんが自宅のマンションの4階から飛び降り、お亡くなりになりました。
> 生前のたっての願いで、通夜、葬式は一切執り行わないことになっております。
> みなさんご冥福をお祈りください。
> 涙を流すのは・・・個人の遺志にふさわしくないと思います。・・・さよなら・・・
> またいつか・・・。
> 涙

!!!!……Yが死んだ。私が一番、情熱を傾けた女性が死んだ……。ついこないだ話したばかりじゃないか。でも、メールで自分が死ぬようにおまじないをかけてほしいとYは言ってきたのだった(もちろん、断ったが)。

書き込みが正しいのなら、私が東京で「機は熟しましたよ」と言われたときには彼女は死んでいたことになる。彼女の死を察知するような感覚は私にはまったく訪れなかった。一番大事な人が死んでも気づかない――そんなものなのか……と不甲斐なく思った。

まずは確認したいところだったが、その時、既に真夜中だった。取りあえず、供養法をすることにした。ここでなしうるフル装備で臨む。修法をしていて、個人的な感情に流されそうになる。去来する思い出。

前に彼女のために供養法をして、最後に焼香しなさいと言って、焼香がなかったので代りに塗香をYに差し出したら、くんくんと臭いを嗅いで「ガンジャの臭いだ」とYが言ったので、私が険しい顔になったことがあったっけ。私はYに対して滅多に怒らなかったから、Yもそのことをずっと後でも覚えていた。

その後、ずっとYのページのログを見ていたら、午前2時30分に、彼女の死を報せる書き込みをしたN田さんがアクセスしたのを見て、真夜中ではあるが起きているのだからと彼の携帯に電話した。

本当なんですかと尋ねる私に、彼は本当であるということと、Yの母親は死亡については報せてくれたものの、誰にも来てもらいたくないと強く思っていると告げた。当のN田さん自身、焼香に行けないと言う。葬式をあげたくないというのは、Yは前から確かに言っていた。皆が笑って、翌日には忘れ去られているような死がいい、と言っていたこともあったっけ。

「前に話したことあったと思いますけど、前にも私が好きだった女性が自殺したことあります」(「日常の断片 2」の「あなたは、なぜ生きてるの?」参照 実はこの文章のほとんどはYに宛てたメールから成り立っている)と私は言い、彼女の家族の気持ちも解りますと答えた。N田さんに礼を述べて電話を切った。

この目でYの最期を確かめたい。が、行ってどうなるのだ? お金だって随分かかるじゃないか。そんな思いが自分の中で錯綜した。

ネットで航空券の検索。行く準備をして行かないことは可能だが、準備をしないで行くことは不可能だと自分を言い聞かせた。朝になるまで逡巡していた。が、行かなかったら一生後悔すると思って、宮崎に行くことにした。

喪服を着ていくか持っていくか――。喪服で街中をうろうろしていたら変だろうと一応白と黒の服装を着て、礼服は鞄に入れた。羽田空港へ。浜松町でモノレールに乗り換えると、浜松町のモノレールの改札でYを迎えたこともあったなぁと思い出す。羽田空港に着いたら着いたで、羽田空港にYを迎えにいったこともあったなぁと思い出す。

そう、飛行機に乗ること自体、初めてYに会いに宮崎に行って以来のことだった。チケットを買って搭乗待合室に行くと、報道陣やら航空会社の人が沢山いた。到着した飛行機が、何便に1つという、その便の搭乗者全員がタダになるという当たりの便だったのだ。その便の搭乗者が降りてくると――。

「おめでとーございます」「おめでとーございます」「おめでとーございます」「おめでとーございます」「おめでとーございます」「おめでとーございます」「おめでとーございます」「おめでとーございます」「おめでとーございます」「おめでとーございます」「おめでとーございます」「おめでとーございます」「おめでとーございます」「おめでとーございます」「おめでとーございます」「おめでとーございます」「おめでとーございます」「おめでとーございます」「おめでとーございます」

私のすぐ横でその航空会社の人たちは愛想よく笑い、「おめでとーございます」を連呼していた。フラッシュがバシャバシャ焚かれ、写真が写される。最愛の人の死を確かめに行く私の横で繰り広げられる「おめでとーございます」。そして、その当たりだった飛行機こそ、折り返しで私が乗ることになっているものだった。

飛行機に乗ること1時間半で宮崎空港着。宮崎はもう夏だった。前に宮崎に来たときは、空港までYが迎えに来て、その時初めて生で会ったのだった。今日は出迎える人はいない。空港からバスで宮崎駅へ。3年前は彼女とドライブした道だ。

炎天下の宮崎駅の前には、ゆず崩れのようなフォーク・デュオが何組もヘタクソな歌をがなりたてていた。

番地を頼りにYの家に行ってみる。迷うかと思ったら大通りに面していたのであっさり見つかった。インターフォンを押したが誰も出てこなかった。そう、朝から何度も電話していたが、全然通じないのだから、誰もいなくてある意味当然でもあった。

仕方なしにその周りを少し歩き回った後、駅に戻る。その後も何度も彼女の家に電話したのだが、自動応答メッセージばかりで通じなかった。

夕方5時になっても、まだまだ昼のように明るかった。これがYが毎日見た町並みや空なんだなとぼーっと辺りを眺めていたら携帯が鳴った。誰だろうと思って出ると、Yの親族だった。かいつまんで言うと「アンタ一体誰だ」「いい加減にしてくれ」というものだ。親族からしたら、私などどこの誰か知らないのだから、見ず知らずの人からの電話の履歴がいくつもあったら、向こうの立場に立てば訝しく思っても仕方ないだろう。が、その電話での会話で私はある意味で納得がいった。自分の心の動きをこの時ほどくっきりと感じ取ったことはなかった。それは希有な体験であった。結局、Yの霊前に立てなかったが、それでいいと思えた。

宮崎市街を案内もなくほっつき歩いていて、3年前に一緒に歩いた場所を幾つか見つけられたのは幸運だった。


5月10日

ある人の応対にカチンと来て、その晩、ジェシカに会った。相変わらず、お香のような香りを漂わせていた。彼女は、私にまた会えて喜んでいるように見えた。そして、こちらが予想しないほど歓待してくれた。感謝の念を抱きつつ、帰宅するが、後で電話すると言った時刻には電話はなく、結局、電話はなかった。


5月8日

釈由美子と散歩をしている夢を朝方に見た。内容を覚えてないが、色々会話をしていた。

トゥルンパづいて、『シャンバラ 勇者の道』(めるくまーる)を買う。


5月6日

父の一周忌。兄の家に行く。兄の頭は茶髪から金髪に変わっていた。法会の時ぐらい黒く染めればいいんじゃないかなと弟に言うと、他の親戚からも言われそうだよと弟は苦笑した。準備のために弟と二人で先に墓地に行くことにする。兄に「じゃ、兄さん、準備で先に行きますから」と一言言ったら、「なんで?」と尋ねられた。「なんで?」と言われても困る。

お坊さんがあげたお経は理趣経と般若心経だった。理趣経で木魚を叩いて、般若心経では木魚を叩かない。そんなものか。理趣経を唱和する人はまずいないから、逆のような気がするのだが。とはいえ、小声で理趣経を唱えていた私。

法会を終えて、お坊さんの法話。こういう話にはほとんど期待していないのだが、期待しなかった分、面白かった。

そのお坊さんが、癌で死んだお坊さんの葬儀に出たそうだ。亡くなったお坊さんは死ぬ前に、自分の葬式で参列者に渡す物を決めていたという。亡くなったお坊さんが、生前にわざわざ決めたという話は、葬儀に参列した、そのお坊さんも聞いていたので、一体何だろうと包みを開けたが、入っていたのは変哲もない陶器製の香合入れだった。何かあるはずとふたを取って裏を見ると「お前も死ぬぞ」と書いてあった。死は他人事と思ってしまうが、そうではないんですよというオチ。

法会の後、食事会。食事が一通り出て、話される話もとりとめがなくなった頃、兄が「リウカ、お前が締めろ」と言う。母が最初に挨拶したのだから、長男である兄が締めるのが順当ではないかと答えるが、母の指名なのだという。仕方ないので即席で挨拶。

兄の家の母の部屋に父の遺影や位牌を戻して、理趣経をあげる。坊さんと一緒にあげたのが、うまくあげられなかったから。友人が遊びに来る予定だったので、早く帰るべく「じゃ、兄さん、帰るわ」と言うと、兄は「なんで?」と言った。

何か本を買いたかったので、トゥルンパの『心の迷妄を断つ智慧』(春秋社)を買って、帰りの電車で読む。トゥルンパの本は『タントラ 狂気の智慧』『タントラへの道』(めるくまーる)、『仏教と瞑想』(UNIO)は読んでいたが、この本で初めて、トゥルンパがグルジエフに言及しているのを見た。トゥルンパがグルジエフを知っていて当然とも言えるけど、今までの本で出てこなかったのと、先日、『グルジェフ伝』を買い、昨日もOJにグルジエフの話をしていたので、共時的に思えた。

友人は具合がよろしくないということで来なかった。部屋でごろ寝しながら読書。


5月5日

明日、父の一周忌なので散髪に行く。久しぶりに刈ったら、自分の頭髪の減り具合に今更ながらに驚き。育毛剤を買おうと考える。

夜、OJがヨガの合宿を終えて、猫を引き取りに来た。OJの猫は1週間居ても、私には全然なつかなかったので、少し寂しかったが、飼い主であるOJ、15年も一緒に暮らしているOJに対しても、彼女の猫は「フーッ!」と怒っていて、それを見て、1週間でなつく猫ではないのだなと妙に納得。OJが言うには、ペットのホテルに預けたときより、神経質になっていないから、うちでの滞在は良かったのではないかと。確かにほとんど好きにさせていた。

駅まで送っていって、最後に握手を向こうから求めてきたのが意外だった。お互い元気にやろう。


5月4日

渋谷のタワーレコードの地下1階で行われた「Music Day 2002 Lady Seady Go」を聞きに行く。生の川本真琴を見るため。進行役のちわきまゆみは知っていたが(といっても今も活動しているとは知らなかった)、出演者で知っていたのは川本真琴だけ。初めて、生の川本真琴を見た。写真や映像で見るより痩せている感じ。可愛い。カバーをするのがテーマだったらしいのだが、川本真琴は自分の曲をやっていた(5月25日追記 カバーをやらなかったというのは私の間違いで、カバーをしていました。詳しくはこちら)。

手作りのチェンバロに、タブラみたいなパーカッション、ギリシアの古典楽器とピアニカという変則的な楽器編成。演奏後のインタビューで、そのチェンバロを使ったのは今日が初めてと川本真琴は答えていたし、「いやぁ、いろいろアクシデントが……」とも答えていたが、せっかく持ち込んだ手作りチェンバロはほとんど聞こえなかった。途中でスタッフの人がマイクが切れているんじゃないかと確かめに来たほど音が小さい。でも、それならそれでミキサーの人が音量を上げればいいんじゃないかと思うが、楽器音量のバランスはメチャクチャのまま終了。川本真琴のヴォーカルマイクが実は切れていたらしいが、それは気づかなかった。それぐらい一応、音は通った。7月にもライブをやるらしいので、それは聞きに行きたい。

大盛堂の前で待ちあわせて、金さんから大野一雄先生の取材テープを受け取る。

外苑前のワタリウム美術館に行き、バックミンスター・フラー展を観る。先日、ホルガーのライブ情報を確かめるために買った「ぴあ」にフラー展の案内が載っているのを見て、開催されているのを初めて知った。でも行ってみて、パンフを見ると去年から色んな会場でやっていたらしい。欲しい情報に行き当たるにはどうすればいいのか。

ワタリウムに来るのはシュタイナーの黒板絵展以来だと思う。調べると、それは1996年11月30日〜1997年3月30日だった。というわけで5年ぶりか。

展覧会の終了間際というせいだからだろうか、GWなのに人が一杯いる。その上、若い人ばかりなのが意外だった。

P3オルタナティブ・ミュージアムでフラー展をやったのは、89年4〜5月。思い出そうとするが、その時のP3の展示内容が全然思い出せない。売店で『シナジェティクス』の原著を売っていたのだけ覚えている。

直筆のドローイングやアルバムから持ち出したのであろう当時の写真は今回のワタリウム展覧会の売りなのかもしれない。しかし、P3の展覧会から10年以上経っているのに、『シナジェティクス』の翻訳は何故出ないのか。自然界の原理にデザインから接近し、解決するというのは凄いことだと思うのだが。翻訳が出ても理解できるかどうかは確かに別問題だし。買ったきり、読み終えていないフラー著『クリティカル・パス』を、読み終えるのが先決か。

歩いてブッククラブ回へ。欲しい本が幾つもあること。買ったまま読んでない本が幾つもあること。一体、いつになったら読み終えられるのか、ちっとも分からないこと……。

帰宅して掲示板を見ると、半年ぶりにYが来てくれた。嬉しかった。


5月3日

EO師の習作集のMDを中野の大予言に受け取りに行く。注文した20名強分しか、制作されないという代物。というわけで注文したが、実は私はMDプレイヤーを持っていない。誰かの所で、録音してもらわないと。

帰りに近くの古本屋に寄ったら、『グルジェフ伝』(平河出版社)が4千円で出ていたので、即買い。

しかし、読み終えるのは大変骨であろう。

カンボジアにいるIMさんから、またメール。面白いので引用。

--〔引用開始〕----------------------------------------------------------

10日間でアンコールワットの朝日夕日ともにバッチリの日が
なかった。やはり普段の行いか。でも朝のアンコールワットはよい!僧の奏でる音楽
が森の中の僧宿舎から柔らかく聞こえてきて小鳥や猿たちとセッション、そのへんで
子どもは牛をしばいており、牛も自分も失禁しかけ。私の一押しの遺跡はベンメレア
という森の一部と化した寺!ラピュタっす!城壁が木の一部組み込まれた状態なの
よ、半端じゃない木のでかさなので、しばし地雷の恐怖を忘れて大自然を感じつつ昇
天っす。

--〔引用終了〕----------------------------------------------------------

アンコールワットの周りも地雷だらけなのね。ニュースで聞いたこともあったような気がするけど、しかし、凄い取り合わせです。


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