苦と思い出

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幼稚園のときのことだ。それがあったことはよく覚えている。校庭でみんなでジェンカを踊ることになったのだ。みんながにこにこ笑っていた。それが理解できなかった。

「生きてる理由が解らないのに、どうしてみんな笑っていられるのだ?」

不思議でしかたなかった。というわけで、何かを楽しむということは私にはあんまりなかった。どうして楽しめるのかが解らなかった。絵を描いたり、粘土いじりをするのは好きであったが、それぐらいだったと思う。また、当時からラブソングが嫌いだったことは、「音雑感」に書いた。なんで世の中、ラブソングばかりなのかも、理解できなかった。

家計の事情で何も習い事をさせてもらえなかったことに劣等感を覚える一方で、何かに夢中になるということを意識的に避けていた。

「何かに夢中になるということは騙されることとほとんど同じ」

そんな認識が子どもの私にあった。「騙されてはならない」――、それが私の持った強迫観念だ。みんなが夢中になる野球にも関心がなかったし、野球帽も被らなかったし、『仮面ライダー』も見なかった。私が見たのは『ルパン三世』や『ガンバの冒険』だ(どちらも、本放送は非常に低視聴率だったが、再放送でなく本放送を見てた)。アウトローだが仲間は大事にする。――そんな彼らが好きだった。あとは『モンティ・パイソン』などのシニカルなギャグ。野球以外のスポーツにもおよそ興味を持たなかった。

子どもの頃、大嫌いだった番組に永六輔の『遠くに行きたい』があった。同名の歌が主題歌であった番組だ。あの歌が聞こえてくるだけで私は激怒していた。

「自分の知らない所に行ったら、何かがあると思えるなんて、考えが甘いのではないか」

自分としては義憤のつもりだった。うちの父親は行楽とは縁のない生活をしていた。そんな環境に育ったせいか、私は行楽や旅行といったものにおよそ関心がない(でも、兄も弟も旅行はするから環境のせいではなくて、やはり資質なのだろう)。

あと子どもの頃に強く思ったことは、

「思い出なんか持ちたくない」

ということだった。過去に執着したくない。過去に執着したら前に進めなくなるのではないかと恐怖していた。

でも、その一方で、もらった手紙などは今でも随分とってある。「思い出なんて持ちたくない」と思っていても、自然と持ってしまうのが実際だ。持たずに全部の人間関係をこなせるほど私はサバサバできなかった。とはいえ、子どもの頃から友人は少なかった。友達を増やそうという考えがなかった。親友だけ数人いてくれれば、それでいいと思っていた(それは今もあんまり変わらない)。

こうした考えは自然と行き詰まる。そして息が詰まる。中学生のときには毎日死を考えた。生きていることの無意味感に耐えられなかったのだ。寄る辺なさを全身から漂わせていた私を心配して、毎日家まで送ってくれたのが、友達のヤンだった。家の方向などまるで違うのに、彼は一旦家に鞄を置くと、自転車を押しながら私を家まで送ってくれた。うちまで私を送ると自転車に乗って帰っていった。ヤンがいなかったら、私は中学のときに死んでいたと思う。

その時、死ななかったのはヤンの存在とアニメの『未来少年コナン』ゆえだった。とりあえず最終回を見るまでは死なないでおこう。そんな些細な考えが細々とした支えだった。だから、私は人が傍から見てどんな下らなさそうなことを理由に死を選んでも、または生き延びる理由にしたとしても批判する気になれない。

この世から消えてしまいたいという願望はあった。でも、その一方で何かが終わることに感傷的になってしまう弱さが自分にはあった。大して好きでもないアニメでも最終回を見ると切なくなった。終わらないものを私は望んでいたとも言える。

割り切れるものには終わりがある。わけの解らないものには終わりはない――。そんな風に考えてみたこともあった。絵画でいうなら、ダダとかシュルレアリスムみたいなもの。

また、子どもの頃から反体制的なもの、裏社会的なもの、ゲリラ的なものに連帯感を感じていたという嗜好もある。

が、反体制というのは体制あってのものだし、裏社会というのは表あってのものだ。当たり前。そして、鬼面人を驚かすという体のものもフツーのものがあっての物種だ。

というわけで(?)シニカルなもの、反体制的なもの、乱痴気なものにもあまり親しめなくなった。そして、それでいいと思う。

皮肉は清涼剤にはなっても、それ自体では何も生まない。皮肉を言い続ける立場というのは、要は生産性のない立場である。自覚している人ならいい。しかし、真面目な努力が成功するのが嫉ましくて発せられる皮肉も多い。しかも本人は高みにいるつもり。こういう皮肉は嫌いだ。前より嫌いになった。

……

今や私は幼稚園児ではないし、小学生でもないし、中学生でもないし、高校生でもないし、大学生でもない。

でも、発端の疑問はいまだ解かれない。だから、心底楽しめるものなどない。ネコを見ると和むというのはあるが――。

その一方で、思い出は増えていく。私は身近な友人関係というものをとても大事に思っている。また一度好きになった異性は、積極的な好きでなくなることはあったにしても、まず嫌いにはならない。それは端的に言ってどん欲な「執着」だろう。執着。

これは随想だから結論はない。少なくとも今はない。が、出さなくてはならない。この生を賭して。それすら、ゆらいだとき、私の生は一体、何になるのか。

普通に何かを楽しめた方がましだったということになるのかな。でも、そうはなれないのだった。(未完)


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