一期一会の鼻毛

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「奇跡っぽいこと」の後の話。売るものもなくなって近くの食堂で皿洗いのアルバイトをしたが、心ここにあらずで周りに迷惑をかけるので2カ月ほどで辞めた。その後、アルバイト情報誌で見つけた日払いの現場作業に従事した。掃除の仕事をしていたときにも毎日、現場が違うということはあったけれど、その場合は、行った先でする仕事は基本的に同じであった。日払いの現場作業は現場が違えば、作業も違う。ある時は塗装、ある時は土方、ある時は運送。これはいい勉強になった。

そして色々な職人の人の動作を見ることができた。体の動かし方には学生の頃から興味があった。合理的な所作というのは自然な美しさを持ち、健康の基本となると考えていた故である。たとえば、職人の人の歩き方を見ていて、「腰を据える」とはこういうことを言うのかと思った。

そして、その時、訓練というもの一般について考えた。何かを趣味でスポーツをトレーニングしているとする。趣味の場合、トレーニングの成果があるのかないのかというのは、時間を長くやったとか、回数を多くやったとかなどの自己満足の度合いで決まってしまうことが多いのではないかと考えた。ゲーム式の対人スポーツなら勝敗で結果が出るので少し違うが、だが結果に対する工夫という点で、仕事の世界でのそれとは違うのではないかと思った。

 仕事も好きでなければ上達しないだろうが、趣味ではない。生活そのものがかかっているのであるから無駄なことはしない。必然的に合理的になる。結果が失敗であったなら、自分の目にも判るだろうし、周りの目にもそれがわかる(判らなければ、それはプロの集団として程度が低すぎる)。

 自分は職人の体の動かし方を見て、なるべくその動作を学習しようと思った。分からなければ、その作業のコツを尋ねた。だから、馴れると働いても疲れることが減った。同じように作業についていてもそうした学習などまるで考えないアルバイトは一杯いた。なるべくサボろうという戦略である。超短期では有効かもしれないが、どこへ行ってもサボろうというのは中期・長期的には明らかに失敗である。いざ、まともに作業するとそうした人たちは無駄が多いゆえに簡単に疲れてしまうのであった。

 また、まともな監督者なら、どいつが真面目に働いて、どいつが手を抜いているかはすぐに判る。どうせ二度と会わないと思って、手を抜いている連中は心証も悪いので、監督者と感情的にもギクシャクしやすいし、しかも、どの現場の監督者とも同じことになる。つまり、手を抜いて得なことはないのである。

 時には、監督者自身が作業を理解していない、というかテキトーに仕事をしようとしている現場もあったが、この場合は人間観察以外、得るところがなく、つまらなかった。

 体の動きだけでなく、やはり考え方もそれまで自分が接してきた人たちとは違った。竹を割ったようにさっぱりしている人が多かった。陰湿な人も中にはいたけれど、自分が会った中では少数だ。

 そう、あれは最初の作業の日だった。1日中、箒を持って、地面に敷き詰めたレンガの間に砂を掃き入れながら微速前進した。その時の監督官は、自分と大して年齢の変わらない人だった。

「そんなもん鼻毛よ、鼻毛」と彼は言った。どうやら、「そんなこと大したことない」という意味の彼特有のフレーズらしい。それが、何とも面白かった。

「鼻毛よ、鼻毛」

 休み時間の雑談が、何かの拍子で自分のB子との別離の話になった。

「そっかあ、オレもさ、ずっと付き合ってた女と別れたときゃブロークン・ハートで辛かったよ。で、やけくそでナンパしてて出会ったのが今のかあちゃんなんだな。この話はかあちゃんにはナイショだけどよ」

 で、また「鼻毛よ、鼻毛」と言って作業を続ける。

その真面目な気楽さに何かを教えられた。

 去年、数カ月間、久しぶりに現場作業のアルバイトをした。昔、ジュリアナのプロデューサーをやっていたことで悪名高い社長のいる会社。全国に支店を展開して、「この業界では初めて上場を果たした」と意気盛んであった。人を時間単位で売買しているという姿勢で、どうせアルバイトはすぐに辞めるという考えでいるので、先に入社した人間に仕事が回らなくても毎日採用する。おまけに失敗は全部パソコンかアルバイトのせいにするという無責任体制。

 ある時、私をアルバイト側の点呼係にしておきながら、私と私以外の全員とで違う集合場所を教えて双方困ったことがあった。事務所の電話は仕事の予約したい人が何百人と必死でリダイアルしているのでまったく通じない。後で、事務所に苦情を言ったら「パソコンが壊れてさー」とだけ言う。

最初の条件と話が違う仕事だったときに質問したら、「別に君が行かなくてもいいんだよ」と新宿事務所の責任者(といっても20代中盤のとても九州男児に見えないひ弱な兄ちゃん)は私に居丈高に言った。仕事をもらうのに2時間、給料をもらうのに2時間という日もあった。日給は以前の3割減。しかも、ギスギスしている人が多くて、鼻毛のあんちゃんたちの仕事場にはあった現場の温もりは極端に減っていた。やたらにどなったり威張ったり監督官も以前よりはるかに多かった。

 ギスギスが多い中でも一期一会として味わい深い人物はいた。でも、鼻毛のあんちゃんを超えるフレーズを出した人はいなかった。

 10年以上前に一度しか会わなかった人物の常套句が、こんなに耳に残るとは思わなかったし、彼もそんなこと夢にも思っていまい。

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