オウム余聞

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オウムの事件があってから、もう6年になる。時間にすれば数ヵ月のことであったが、私は事件直前にオウム真理教の信者の人と話す機会があった。2001年11月5日の日誌で、そのことを少し触れたのを機会に書き残そうと思った。

94年の春だったろうか。ある雑誌の文通欄を見ていて、文通したいなと思った相手がいた。手紙を書いたが、返事はなかった。それから、数ヵ月が経ち、私はその手紙のことを忘れていた。すると、ある日まったく見覚えのない名前の女性から手紙が届いたのだ。訝しがって中を見ると、私が手紙を宛てた文通希望者の友達だと名乗っている。本人は今、手紙が書けないので、自分が代わりに文通しようという話だった。妙に思いながら、取りあえず、返事を書いた。2通目の手紙で、早稲田でパーティーを開くので参加しませんかと誘ってきた。文通を2回しかしていない時点で、「パーティーに来ませんか」というのは怪しさがさらに倍増したが、それが何であるのか知りたいという好奇心もあったので出席してみた。

その当時の手紙は捨てずにどこかにしまってあるはずなので、探し出せば正確な日にちも判るだろうが、今はその気力がない。

地下鉄の早稲田駅からほど近いマンションの一室にそのパーティー会場はあった。後日、TVの報道でアジトの一つと何回も放映されて変な感慨を持った。

彼女ら(呼んだ側は女性が多かった)は、その時はオウムとは名乗らず、ヨーガ教室の友人連と説明していた。文通相手の女性は、私に別に関心があるように思えなかった。会話していても非常にうわべだけな印象があった。文通でダイジの本のことに私は触れていたので、私はその日、彼女にダンテス・ダイジの『アメジストタブレット・プロローグ』(森北出版)を貸した。

私のたまたま隣になった女性も、同じヨーガ教室の会員だと語った。全然楽しそうにしていない女性、それが日誌で書いたY子さんだった。私は実際には彼女を下の名前で呼んだことがないので、ここでは阿部さん(仮名)という名で書く。楽しそうにしていないので私は彼女に話しかけてみた。すると、阿部さんは、人生の意味などに悩んでいたという。自分の周りの高校来の友人、あるいは職場の人間には、そうした話題は全然通じない。それに悩んでいたという。が、このヨーガ教室でやっとそうした人生の意味や苦しみについて語り合うことができる場を得たと語った。

とつとつとしたしゃべりは決して上手なものではなかったが、非常に真面目な人なのだなと印象を持った。そうそう、私は阿部さんについては印象が幾つかあるが、当の文通相手についてはろくに覚えていない。

その日のパーティーがお開きになり、地下鉄の早稲田駅のホームまで阿部さんと雑談しながら歩いた。

ホームが別になるということでそこで別れることになる。彼女の表情に、いまだ何かもの悲しさを感じた私は、もう一度近づいて自分の名刺を渡した。すると彼女も勤め先の名刺を渡し、それで別れた。

彼女の悩んでいるという話の内容に、役に立つのではないかと思い、ヴァーノン・ハワードの『あなたはなぜ我慢するのか』(日本教文社)を手紙を添えて、彼女の職場に送った。

数日して阿部さんから電話があった。初めて会った人からこんなに親切に手紙をもらったのは初めてと喜んでいた。その電話で自宅の電話番号なども聞いたのではなかったか。

実はオウムだという話は、パーティー会場にいた、文通相手とは別の、がやはりヨーガ教室の会員(この女性をIGと表記しよう)から聞いたのだった。パーティー会場での雑談の中でいわゆる精神世界や陰謀論に対する私見を述べ、かつ自分が文章周りの仕事をしていると話したことが、おそらくオウムの関心を引いたのではないかと推察する。

結局、文通は会員獲得の作戦であり、私はまんまと引っ掛かったわけだ。この人と文通してみたいと思わせるツボを先方は心得ていたわけだから。IGが自分らはオウムであると表明した後は、文通はなくなった。結局2回しか手紙は書かなかったし、文通相手とは親身な話などまったくしなかった。

電話をかけてきて、渋谷の本部(後に村井さんが刺殺されたあの現場)で人に会わせたいとIGは言った。彼女の説明としては、私が文通相手に送った手紙を幹部の一人が手に取り、サイコメトリーで私に関心を持ったのだという。その日、会った人物は確か、麻原のボディガードの一人だったと思う。その日に渡されたオウムの会誌に載っていた彼の紹介が武術の達人となっていたと記憶する。この日の会見については、会った直後にたまみさんに手紙を書いている。手書きの手紙なので手元に控えがないが、その人物に「逝っちゃってる」印象を受けたことを書いたのは覚えている。目の焦点が合っていないという感じ。感銘はまったく受けなかった。

断片的な記憶だが、この日、IGが私を本部まで車に乗せてくれた。本部に駐車された自動車には、どれも「この自動車にいたずらすると地獄に落ちるぞ」というメッセージのステッカーが貼ってあった。

前後の記憶をたどると、私はそもそもの文通相手と待ち合わせをしたことがないのに貸した本が戻ってきているから、本部に行ったこの日に返したもらったことになるはずだ。ダイジの『アメジストタブレット・プロローグ』はぼろぼろになって返ってきた。貸していた期間から考えて、読み込んだためにそうなったとはとても思えない。ぞんざいな扱いを受けてそうなったのだろう。その文通相手も自分らの方が教える側であると思っているのに、こんな瞑想についての本を貸されて変な感じだったのかも知れない。読んだ感想は何もなかった。

そう、麻原は一時、ダイジのところに来ていたと、ダイジの弟子だったNさんから聞いた。瞑想をしているときに直面しそうになった孤絶感に耐えられなくて逃げ出したのだというのがNさんの説明であったが、生前のダイジに会ったことのあるという知人は、麻原がダイジのもとを離れたことについて別の説明をしていたので、別離については私には判らない。が、麻原の方からダイジに接触を求めたのは事実だろう。文通相手が信者獲得を目的としたオウム信者とは知らずにダイジの本を貸したのは、皮肉のような気がする。

私はその幹部より、阿部さんと会いたかった。

オウムだったんだという話を電話でしたとき、阿部さんはすまなさそうに謝った。パーティー会場でもつまらなそうにしていた理由の一つはそれであったという。つまり、騙して人を集めていることに対する後ろめたさ。それに対して、彼女より先輩格(恐らく私の文通相手だった女性もそうだろう)の人たちは、眠れる人たちを救う機会を増やすためには必要なことだ説明したらしいし、彼女らは心底そう思っているのだった。しかし、阿部さんは後ろめたさを感じていたわけだ。人を騙すのが良いことなのか、と。

IGからオウムの行事へのお誘いは、その後何回かあった。そして、阿部さんは一度も私をオウムへは誘わなかった。

妹も道場へ連れていったと阿部さんは話していた。地獄へ落ちる恐怖を聞かされていて、それが怖いと言っていた。家族が地獄に落ちるのも嫌なので、理解がありそうな妹を誘ったのだと。真面目に人生に悩み、真面目に家族が地獄に落ちることのないように願っていた阿部さん。確か母親の因縁のことも心配していた。

杉並のどこだったかで開かれた会合に是非とも来て欲しいIGにしつこく嘆願されて、あまりのしつこさに、参加したことがあった。IGは確かに営業に向いていたと言えるかも知れない。信者や会員がいっぱい来るだろうと思ったら閑散としていた。一番後ろに座っていたのだが、ビデオを撮っていた人物が、すみません前の方にいっていただけませんかと言う。つまり、そのままビデオを撮ったら閑散ぶりがバレバレなのでカメラの視界に人を集めたいわけだ。信者でも会員でもない私が、一番前で、その日の催しに接した。

その会場の正面中央に描かれたチベット仏教の仏画のようなもの。これが本尊なのと思わず目を疑いたくなるマンガちっくなものだった。でも、それが本尊なのだ。

富士山の道場から滅多に下界に降りてこない女神たちの歌が聴けるというプログラム。実際の歌に先立って、司会のようなことをした女性幹部は、非常に傲慢な態度であった。要するに自分らは意識が高く、あんたらは低い。あんたらを高めるために、この会合を開いているのだから感謝しろというような内容。

で、滅多に下界に降りてこないという女神3人の歌はどうであったかというと、ど下手であった。

会が終わって、どうでしたか?とIGに感想を求められて、ひどいですねと答えたはず。

オウム事件からずっと後のことだが、仕事で、ナムカイ・ノルブ師(チベット仏教のゾクチェンのマスター。邦訳著著に『虹と水晶』(法蔵館)、『ゾクチェンの教え』(地湧社)などがある)の本の翻訳をしている永沢哲氏に会うことがあった。雑談の折りに、オウム真理教の話になり、オウムの美的センスのなさというのは一体何なのだろうということが話に出た。オウムの教理や体系に、これは間違いなのだと力強く糾弾する論者はいる。しかし、体得しているかどうか別にして、一応どこかに書かれたものを切り貼りしているのが多いから、全部が全部間違いと言えるわけでもない。それに対して畏敬の念を起こさせるもの、崇高なものに対する美的センスのなさは目に見えて明らかだろう。

強制捜査直後の報道で、サティアンの内部にあった本尊について、それが発泡スチロールで作られていたという報と、そのいびつな造形を写した写真を見たときにもその感を強くした。中にプラントが隠されているか否かとは別に、これを本尊として拝むというセンス・神経が変ではないかと思う。

最後にIGから電話があったのは、麻原がオーケストラを指揮をするコンサートに来ませんかというものだったが、それは行かなかった。阿部さんと最後に話したのが、事件のどれくらい前だったかは記憶が定かでない。

そして、1995年3月、地下鉄サリン事件が起きた。

オウムの関与が報道されて、阿部さんの家に電話をするもつながらなくなっていた。職場に電話をすると退職したと告げられた。つまり家も職場も変えたのだ。それっきり、阿部さんからの音信はない。

実際に阿部さんに会ったのは、結局、あのパーティーの日だけだったが、今も時折、阿部さんのことを思い出す。人が真面目に人生を考える場が世間にはなく、それを求めて彼女が行った先がオウムであったのは悲劇だ。一時は安心を得たわけだが、あの事件に接して彼女がどんな思いになったのか。最初から不真面目な人間なら決して巻き込まれることのなかった事件。忘れたい過去になっているとは思うし、実際今どこで何をしているのか知らないけれど、私はまた阿部さんと話せる機会があったらなと思う。

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