いやさかつきに栄えなむ み魂幸はへましまさむ いやさかましませ
血がたぎるとは、多分こういうことをいうのだろうと犬早(いぬはや)は思った。今日を限りに世が終わるということをずっと感じていた。見渡すかぎりの焦土、空は身を押し潰さんばかりに低く、あたり一面には鼻を突くような臭気が漂っていた。
千代来(ちよき)が、ずっと以前、犬早に話してくれたことが今や本当のこととなって繰り広げられている。
今日を限りに世が終わる。
遠い昔、犬早が都に住んでいた頃、誰も犬早のことなど相手にしなかった。犬と人とのあいのこなど誰もまともに相手にしてはくれなかった。婆が死んでしまった後は、犬早はずっと独りぼっちだった。千代来に逢うまで。
婆の言い付けを破って、都に出たときのことを犬早は今でもくっきりと覚えている。恐れと蔑みの眼。そうだ都に住む前は婆と二人きりで山の河辺に住んでいたのだ。あんなに愛おしく思った婆の顔も今では、殺した人々の断末魔の顔の数々に塗れて思い出せない。ただ穏やかな光として犬早の記憶の中に浮かび上がる。
婆は、どうして俺を育てたのだろう? 犬と人の合いの子のこの俺を。
千代来が教えてくれた話の数々。
今や薄ぼんやりした黒い太陽だけが犬早を知っている。
誰もいない荒野で犬早は夢を見る。ひたすらに続く壮大な哄笑の只中にいる自分。束の間の躊躇の後に、得体の知れない自信とともに自らが天地を裂くほどに笑うのだ。
天も地も壊れてしまえ。何もかも壊れてしまえ。俺が見届けてやる。許してやる。
婆と千代来とユミツ以外の者に、犬早が見たものは、怒り、憎しみ、報仇の念、浅ましさ、そうしたものばかりだ。しかも、そんなことは知らぬという顔をした者ばかり。
千代来の話では、遠い昔、遠い国に尊い教えを説いた尊いお方がいたのだそうだが、犬早は、そのような者を見たことがなかった。千代来の言うことに嘘はあるまい。だが、犬早には「尊い」という意味さえよく解らないというのが実際だった。もし、その「尊い」方が居るのなら、千代来に似た者に違いないと犬早は考えていた。
千代来の笑顔が犬早は好きだった。何故か知らぬが嬉しかった。それは得も言われぬ懐かしさの感覚を伴ってやってきた。
ざっくりと手応えを感じる。俺を醜いと断じたお前は、どれほどに美しいのか。嘔吐と血糊の海に沈んでまで命乞いするお前のどこが醜くないというのか。俺の牙が食い込む首をブラリブラリと振ることしか出来なかったお前等に何を言う資格があるというのだ。
だから、俺は笑ってやる。笑い続けてやるのだ。誰一人居なくなっても笑い続けてやる。
時々思い出す。俺はユミツが好きだった。あいつは千代来と同じように俺を扱ってくれた。ユミツの可愛い瞳。ユミツの可愛い口。ユミツの優しく可愛い手。
あらゆる殺意が一瞬の火花として散る時。お前らの幸福を約束してやる。お前らのねたみ、そねみ、呪咀を終わらしてやる。俺の牙がそれを終わらしてやる。
ちっぽけな薄暗い太陽が沈むとき、犬早も眠りに付く。そして数十億人の合唱のような哄笑をまた夢に見るのだ。
虚ろな足跡。枯れ切った風の中を進む。お前らは所詮それまでのもの。俺の亀裂はどこまで続くのか。
千代来の顔さえ思い出せなくなってからどれぐらい過ぎたろうか、とは言え、日に日に一日の境界が不鮮明になってゆくのだが。
思い出の隙間がどんどん空いてゆく。最初は恐ろしくもあったが、今は、それがどうして恐ろしいのかよく解らない。いつだったか、誰だかの笑顔を見たような気さえしてしまう。
俺は堕ちてゆくのか。何処へ? 何かが何処かに進んだことがあったのだろうか。
その夜、夜とも言えぬ夜に犬早は珍しく星を見ることが出来た。薄ぼんやりとしてはいたが、実に久しぶりに見る星であった。
星よ、星よ、俺の願うところをかなえてくれ。お前にそれが出来るのなら、俺の願うところをかなえてくれ。
その晩に犬早が見た夢は、哄笑の夢ではなかった。めくるめく絵巻物を見ているようだった。
違う昔、違う俺は故郷を後にした。故郷の皆の見送りを受けて、役割を果たすと約束して村を出たのだ。慈しみ――。慈しみというものを教え広めると約束して故郷を後にしたはずだ。
自分は違う昔、小さな国の王子であった。尊いお方の尊い教えを受けていた父の許に暮らしていたのだ。そんな日々のある日、とある城にゆくようにとのお告げを夢に見たのだ。その城にゆくことは、父と別れることを意味していた。そして尊い教えを広める役を果たせるようになるために城で修業するのだ。
違う昔、違う俺は何故か密偵の仕事をしていた。そうだ幾ら口で慈しみを説いても埒が開かないことをやはり違う昔に厭というほど思い知らされたのだ。だから、軍将たちに協力して、この国を拡げてただ一人の王の治世を実現しようとしたのだった。ただ一人の絶対の王を戴くことで、地の隅々までに教えを広めることを願ったのだ。
慈しむにも値しない人々。信用ならない者たち。浅ましさの権化のようなこいつらのために身をやつすことに違う俺は疲れ果てたのだ。違う昔、違う俺は約束を忘れていった。
違う昔、いつしかそれは怒りとなった。この体たらくを許すことが出来ないために破壊と殺戮へと向かったのだ。尊いお方は、遠い星のような存在になってしまった。それが幾ら明るくとも、違う俺はそれで暖をとることも、書を読む明かりにすることも出来なかった。
愛するユミツ、それは違う昔の違うユミツだった。それはかけがえのない安らぎであった。その違うユミツもいとも簡単にこの世を去り、俺は自分の胸に空いたがらんどうを埋めたいがために、どうでもいいような女たちの間を彷徨したではなかったか。だが、どうでもいいような女でも、どうでもいいなりの情けがあるのだということも、違う俺は身に染みて感じていた。
女でなくともいい。違う昔、違う俺は、鉄や石ばかりで出来た高い塔が林立する都に住んでいた。からくりを積んだ鉄の箱が往来を凄い速さで行き交う。動物たちの殆どいないその都で猫を撫でたことを違う俺は妙に覚えていた。お前のことは決して忘れないよと思いながら猫を撫でたのだった。可愛い猫だった。
だが、俺がここに墜ちてきたときに、ユミツも一緒に落ちてきてくれたのだ。なんと有り難く、なんと悲しいことだろう。違う昔に、故郷を後にしてから一体どれだけの世界を下ってきたのか。
違う昔の違う俺が、違う俺が…、数限りないときめき、数限りないいとおしさ、数限りない裏切り、数限りないへつらい、数限りない憎しみ…、数限りないあふれんばかりの情熱…。
朝とも言えない朝になり、犬早は目を覚ました。目には涙が浮かんでいた。悲しさと情けなさ。そして悔恨の情が、確かそういう名のはずの感情が犬早を捕らえていた。違う昔に忘れ果てたような感覚だった。
ゆらゆらとゆらめく空気の中を犬早は歩いて行く。行く宛があるわけではない。それ以外にすることがないのだ。荒れ野でうすぼんやりとした影とともに犬早はうつろいゆくだけだった。
……人の臭いがする…。この荒れ野でまだ生きている奴がいるのだろうか?
今までなら、すぐさま見付け出してなぶりものにしてやった犬早ではあったが、そのときはよろよろとその臭いがする方に近づいて行く。
「ひゃっ! 助けてください。命だけは、命だけは、どうか勘弁して下さいまし!」
ガリガリに痩せた女とその娘とおぼしきやはりガリガリに痩せた子供の二人。岩陰に隠れていたのを見つけられた女はぺしょんと座り込んで必死に手を合わせて犬早に泣き付いた。いつもなら、そんな嘆願を無視して、いや嘆願されればされるほど、熱く血祭りに上げたものだが、犬早は拍子抜けしたような感じでその二人を見下ろしていた。
「別にお前らを殺して喰おうとは思わん。人の臭いがしたから来てみただけだ…。ただ…一つ聞きたいのだが、お前らの他にもまだ人はいるのか?」
「助けて下さいまし! お願いですから。なんならこの子を差し上げますから。私だけは助けて下さいまし」
「殺さぬと言っているだろうが…」
女の嘆願は必死さを増すだけで一向に犬早の言うことに応えなかった。娘は何も分からず黒い瞳を犬早に向けている。埒があかぬと思った犬早はその二人に背を向けて元来た方へと歩き出した。
! えッ… ?…
一瞬の変転に犬早は事態が飲み込めなかった。鈍い痛みがこだまのように感じられる。
倒れた犬早の頭を女が石を持ってガスガスと叩いていた。犬早が背を向けた瞬間に近くにあった石を手に取って襲いかかったのだ。こんな痩せた女のどこにそんな力があるのかというぐらい一心不乱に打ち据えていた。
痛い 痛い 痛い
「へへっ、犬と人の合いの子みたいだから、多分食べられるだろ。久しぶりの食べもんだよ」
犬早はもはや抵抗しなかった。敢えてそうしたというより、そうした反応がプツリと切れているような、他人事のように感じられていた。
あ氈c 俺は消えて行くのか…
「ほら、お前にも喰わせてやるからね。ちっと待ってなね」
でも、何処へ?
薄れゆく意識で犬早は確かそうであったはずの尊いお方の名を口にした。
「…………」
女はびっくりして後ずさった。
「お許しを! ほんの出来心なんです。いや、この子があんたを食べたいって聴かないもんだからっ」
犬早は動かなかった。ぐしゃぐしゃにされた頭が黒い太陽に照らされている。
「なんだよ。おどかしやがって」
そういうとガリガリに痩せた二人は犬早にせっつくように噛りついた。
意識が暗黒に消え行く刹那、その刹那は消え行く犬早の意識には時間というものの意味が無くなって行く刹那のように感じられた。
俺を食べるがいい。そうして生き延びてくれ。
全面に開示されて行く解放された記憶は犬早のものだけではなかった。自分を食べている少女の記憶さえ自分の記憶のように思い出せる。いや、自分のものと思っていた記憶に境界があったことさえ犬早には分からなくなってゆく。
これは物語なのか。天地が始まる以前からの物語が――。
犬早の意識が漆黒の闇に消え去ると、開示された全ては無に還っていった。
二人の女はしゃがみこんで犬早の肉をガツガツと食べていた。夜ともいえない夜になっても二人はその行為を続けていた。
しかし、その夜は二度と明けなかった。その世はその日を限りに消えてしまったのだった。
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