あなたと歩いた土手


 あなた…、あなたと二十五年前に歩いたこの土手を、私は今独りで歩いています。

 あなたと一緒に勤めた工場は今はもうありません。十何階建てのマンションが建っています。だけど、こうやって夜の土手を歩いてみれば、闇に浮かぶ風景は、あなたと歩いた頃と大して変わりません。「ほら、キレイだろ」と、あなたが指差したときと同じように、工場の煙突の赤いランプがチカチカと光っています。煙突からは、夜にも拘わらず、白い煙がもくもくと上がり、夜空に溶けていきます。

 下丸子から帰ればすぐなのに、仕事の後は、あなたと一緒に土手を歩いて雑色までゆきましたね。煙突を眺め、煙を追い、空を見上げ…。

 東京に出てきて右も左も分からぬまま工場に入った私に、あなたは親切にしてくれた。あなたが隣の市の出身だと知って郷里の話にも花が咲いて…。あのとき、私は十八で、あなたは二十三だった。

 思い返してみて本当にそれだけの年月が過ぎ去ったのか実感が湧きません。気がついてみると、二十五年も経っていたとゆう感じです。

 蒲田の方が便利だよと、あなたに言われ、蒲田にアパートを借りて… あなたは毎晩のように私のアパートに遊びに来て… 親切で優しいお兄さんだと思っていた……。思っていたのに。

 記憶の中のあなたは若いころのまんま。今では、それが本当の姿なのか、自分でも確かでありません。あなたとあのまま結婚していれば、記憶の中のあなたと同じぐらいの子供が居てもおかしくない…。 

 私は、あなたと結婚しなかった。誰とも結婚しなかった。子供も産まなかった。

 今日、あのアパートを引き払いました。あの後もずっとあそこに住んでいたと知ったなら、あなたは驚くでしょうね。あの日、取っ組み合いの喧嘩の末、部屋中ひっくり返して、窓硝子全部割って、あなたは行ってしまった。あなたは、私より、東口のバーの女を採った。あの時ほど泣いたことは後にも先にもありません。硝子が降ってきたんで、様子を見に下の人が来ても、全く構わず、散らかり切った部屋の真ん中に座り込んで、ずっと泣いていました。

 真っ白な日々でした。単純な話、あなたがお金を全部持っていってしまったので引っ越せなかったのです。あの後、工場を辞め、武蔵新田の小さな会社の事務員になりましたが、お金が出来たころにはどうでもよくなっていました。

 その会社も一週間前に辞めました。勤続二十年…、自分でもよく勉めたなと思います。

 二十五年暮らした部屋…、家具が無くなってしまうと、こんなに狭かったのかと今更ながらに思いました。一時はこの四畳半に二人で暮らしていたなんて嘘のようです。アパートは古くなったので、もうすぐ取り壊されるそうです。

 疲れたのかも知れません。私は、この街を出ます。でも、行くあてはないんです。田舎には十五年以上帰っていませんし、向こうに私の居場所はないでしょう。

 大屋さんの所を後にすると、自然に足がこの土手に向かいました。何故でしょう…、自分でもよく分かりません。

 多摩川沿いに羽田空港の爆音が上ってきて、距離の割には大きな音が響いています。煙突はというと、赤いランプをチカチカさせて、白い煙を吐いています。私は、夜風の中に立ってそれをずっと見ています。

 あなた…、あなた、さようなら。

 


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