液体窒素の想い出


「嘘ぢゃないんです。本当なんです。」

彼女は私に訴えた。私は、どうして私がここに屠てなぜ彼女から訴えられなけらばならないのか能く分らなかった。

「お気を静かに、お嬢さん。」

私は礼儀正しく振舞うべく、どうにか取りつくろって先に進めた――

「一体全体何がどうしたと言うのでしょうか。もし私にお訴えになるのならば、一から十まできちんとお話し下さい。そうしていただかないと私には何のことやらとんと分りません。」

娘はハンカチを取りだし涙を拭きながら言った。

「すみません、つい取り乱してしまいまして。でも嘘ぢゃないんです。本当なんです!」

「身の源白を…何についてだかは存じませんが……訴えるならば、私にではなく裁判所へ行つた方がよろしいでしょうな。」

私は少し冷たげに言い放った。娘はうつむいてしまった。娘が黙ってしまって初めて、私は周囲の状況を観察することが出来た。

 ここは…ここは野戦病院だろうか。薄暗いテントの中には急ごしらえのベツドがたくさんあり、その上には負傷したらしい人が横たわっている。自分は一体何者なのか、何故ここに居るのか? 私の記憶はそのことについては空白だった。訳の分らない考えが頭の中を飛び交う。

 すると急に娘が口を開いた。

「妹が……迎れ去られてしまったのです。今朝の出来事でした。あっと言う間の出来事で私は先程のように、いえ、もっと取り乱してしまい、一体何が何やらさっぱり分らず、ただおろおろしておりました。」

「ただごとではありませんな。で、そのことは警察に通報されましたか。」

「警察にですって!」

 彼女の目は急に見開き、語気が強くなつた――。

「通報しなくとも警察はこのことを知っていますわ。妹は警察に連れ去られたのです、尤も秘密警察にですが。」

話されたことは……使われた言葉は勿論みな知っていたが……一体何なのか私には全然掴めなかった。

「話は分りました。」

聞きたくない話を打ち切るとき私はいつもこう切り出したはずだ

「それで、その話をなぜ私に訴えるのですか。おかど遼いのように思えるのですがね、私には。」

「あなたは私の妹を御存じないとおっしゃるの? この街で一番歌のうまい、あの素敵な声をもつ――一度聴いたたら誰もが忘れない声を持つ私の妹を御存じないとおっしゃるの?」

「もの忘れはそれほどひどくない方ですがね。私もあなたの妹さんとやらの歌を聴いたことがあれば、覚えていたでしょうな。」

包帯に体を包まれた男がねめつけるようにこちらを見ていた。こんな所、早く脱け出さなくては。

「そうですか。あなたは私の妹を御存じないと言い張るつもりなのですね。」

「言い張るも何も、私はあなたの妹さんは会ったこともなけれぱ、話に聞いたこともありませんよ。」

私は、多くの負傷兵(多分そうだろうと思う)の視線、しかも善意のそれではない、を感じていたので、娘に手を差し伸べた。

「ここでは何てすから、外で……そうですな、一つ落ち着ける所でゆっくりと話を聞こうではありませんか。」

娘はこくりとうなづき、私達はテントの外へ出た。

見知らぬ街だった。(しかし、私が知っている街とはどこだろう。)ひっそりとした石畳の街並はうすら寒い空気によく合つているようでもある。私はうつむいて歩きながら、考えあぐねていた。何故こんな見知らぬ街を私は歩いているのだろうか。…………

 為体の知れない焦燥。錯綜するわだかまり。混沌とした思い。

「よろしい、もう体面を取り膳うのは止めにしましょう。取り繕うにも出来ません。正直に申し上げます。私はあなたを知りません。のみならず、自分が何者で、何故ここに居るのかも分らないのです。ですから是非敦えて欲しいのです、ここは何処で、何故あなたが私に話しかけたのかを、」

「本当に何も御存じないようですわね。私のめがね違いでした。どうも御免なさい。」

涙の晴れた娘の顔には或る種の異様なまでの真摯さがあった。

「ここは私どもの街です。私はこの街で針子をしております。私があなたに妹の無実を訴えたのは、あなたがテントの中に在って一人皆と違う風をしていたので、てっきりお偉いさんだと思ったからなのです。テントの中の怪我人は、見てお分りのようにどうしようもない連中ばかりです。」

「私はお偉いさんではありませんよ。私は……。」

言葉が継げなかった。

「そのようですわね。薄暗いテントの中では気付きませんでしたが。」

「よろしければ、あなたの家へ連れて行っていただけませんか。お話もそこで伺いましょう。それに私はこの術はまるっきりの不案内で、どちらが西か東かも分りません。」

「ええ、喜んで。間違いをして不仕付けなまねをしてしまったのは私です。どうか許して下さい。」

私は娘の後に付いて行った。披女の家は通りから露地に入った所にあり、これと言って特徴のないレンガ造りのアパートメントだつた。窓明りが差すだけの部屋の中では小さな蛾が数匹飛び回っていた。テーブルにつくと彼女がお茶を持って来た。

「人の心は何故にこうまで頑ななのでしようか。」

娘の言うことは相も変らず意味不明である。と言うより何の脈絡もなく話しかけてくるので意味が見えなくなるようだ。

「お媛さん……」

次の言葉がとっさに出なかったので、私はお茶をすすって間をもたせてから続けた

「おいしいお茶ですな。いい香りだ。ところで私には、あなたが何をおっしゃろうとしているのかが未だによく分らないのですが……。そうですね、まずあなたの妹さんの話ですが、私はあなたの妹さんを存じません。よしんぱ知っていたとしても、妹さんをその秘密警察から連れ出すほどの権力など私には微塵もありません。何しろ自分が誰だか分らないほど情けない男ですからね。」

娘も椅子に坐り、溜息をついてからお茶を一すすり、そして話し始めた。

「ええ、あなたがお偉方の仲間でないことは、テントから出た折に分りました。しかし、どう言えばいいのでしょうか。私は誰かに妹の無実を訴えずにはいられなかったのです、妹は、それは良く出来た子です。魔女でなぞあろうはずがありません。」

「魔女ですって?」

「ええ、秘密警察の人達は家に押し入るなり、『お前の妹は魔女だという密告があった。早くここへ連れて来い。さもないと皆殺しだ』とわめきたてました。私は唯々おろおろし、その間に彼等が妹を部屋から無理矢理連れ去ってしまったのです。」

「彼等が秘密警察であることは確かなんですか? その……何か身分証明みたいな物を見せたとか?」

「ええ、本物です。本物の秘密害寮でなければ、誰もあんな非道いことは致しません。」

「なるほど。」

「秘密警察に捕まって生きて帰った者は一人としておりません。妹は、私の妹は、今日の午後にも処刑されてしまいます!」

なんて所なんだ!と内心思った。理不尽なことだらけだ。二人とも沈黙し、蛾の羽音が耳に届く。ややあって私は重い口を関いた。

「誠に恐縮なのですが、御馳走にまでなって。しかし、そのような相談をされても私は無力なのです。」

酷な言い方ではあったが、他に仕様がなかった。娘はうつむいて黙っていた。

 すると外から徴かに歌声が聞こえてきた。娘は急に顔を上げ、目を見開いた。

「あ、あれは妹の声です! 帰ってきたんだわ。」

彼女は部屋を飛び出して行った。私は暫く呆気にとられていたが、ことの成り行きを知るために娘の後を追った。

 そこでは黒装東・黒覆面の男が六人、一頭の栗毛の馬を囲んで歩いている。その栗毛の馬の上には後手に縛り上げられた白菱東の十六、七の娘が一人乗っていた。彼女の妹らしい。まっすぐ正面を見据えて力強く歌っていた。

「……だから間口を固めて囲炉裏の前で身を寄せて震えて眠るの……」

――そんな歌詞だった。

 その一行の行く手には広場があって、場違いな感じの枯れた木が立っている。その黒装束が秘密警察なのだろう。あの娘は黒装束の男にすがり付き、涙して何かを絶叫していた。どう見ても帰って来たのではない。娘の妹は、二度と帰ることの叶わぬ所へと行こうとしているように見受けられた。懇願むなしく、黒装束の男に足蹴にされた姉の方は、打ちどころが悪かったらしく、こと切れたようだ。彼女の妹は一心不乱に歌い続けている。

「着飾っていても、夜はすぐ来る。闇と共に冬も訪れ、だから、間口を固めて囲炉裏の前で身を寄せて震えて眠るの……」

 暫くして歌声は聞こえなくなり、枯木に大きな白い実が出来た。無関係な二つの死を――そうであると自分に言い聞かせた訳だが――見届けた私は、周囲からの視線を感じていた。先程ののテントの中に居た負傷兵、包帯だらけの男達が私を見つめていた。

「よそ看だ。」

誰かが言い出した。すると口々に私のことをののしり始めた。

「よそ者め!」

「お前が疫病神だ!」

「お前のために呪われる!」

「やっちまえ!!」

その一言で皆が私に押しかけてきた。なぎ倒された私の頭には、何故か「人の心は何故にこうまで頑ななのでしょうか」というあの娘の言葉が響いていた。何発かくらったのちに私は気が遠くなり、深い闇に落ちて行った。


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