方法と指導、それと普及

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いろんな次元のことをつれづれに書く。

 どの本に書いてあったのか探すのが面倒なので確認しないが、OSHOが、こんなことを書いていた。簡単な行法と提示すると、「こんな簡単な方法で効き目があるわけがない」と思い、、複雑な行法を提示すると「こんな複雑な方法、できるわけがない」と思うのがマインドの習性だと。その両極(人によってその幅はまちまちだろうが)を何度か(あるいは何度も)行ったり来たりするのだろう。

私が、いわゆる「精神世界」(←この言葉は好きではない)に関心を持ったときから、一等に尊敬しているのはクリシュナムルティで、当時から好きなもう一人はグルジエフだった。

クリシュナムルティとグルジエフでは「両立しないだろ」と寸評してくれた知人がいたが、私個人には違和感はなかった。しかし、確かに前提は全然違う。クリシュナムルティは徹頭徹尾、師や方法を否定する。個であれ、方法はない、と言う。グルジエフは道案内がいないのなら、独りで歩くのは止めたほうがいい、と言う。

OSHOが何度か揶揄していたことだが、「方法はない」というクリシュナムルティの言う言葉を真に受けて何もしないで変容した人はいたのか。おそらく、いなかっただろうと私も思う。「何もすべきことがない」というと一番簡単そうだが、「方法はない」という言い方だと一番難しくなってしまう。

どの師匠や方法が信用できるのかというのが、常識的な考えにおける肝だろう。

本物探しをする立場としては、誰が本当に悟っているのかということを一つ問題にする。気持ちは判る。その一方で、誰それはニセモノという判断が出る。そして、こういう判断は、不用意に公言すると無用な軋轢を生む。OSHOに対しても世間の認知は「セックス・カルトのグル」とか、そういうものだろう。そう思っている人を説得しようとも思わないし、自分が説得されようとも思わない。「話せばわかる」とはよく言うが、筒井康隆だったかの「話せばわからない」の方がこの場合、当てはまるだろう。

釈迦とイエスとどちらの境地が高かったとか口論する人たちもいる。猪木と馬場のどちらが強いかと、それぞれのファンが口論したところで、口論に勝った者が猪木や馬場ほど強くなれるわけでもなし。イエスの説教だったか、「他人の羊を数えてもしょうがない」。自分の羊を数える。

さて、師が本当に知っている、とどうして弟子や生徒にわかるだろう。わからないのだから師など求めるなというのが、乱雑な括りだが、クリシュナムルティの立場だと思う。グルジエフは、そこにこそ直観が必要だと言った(『グルジェフ・弟子たちに語る』めるくまーる p.91)。

グルジエフは(秘教的)知識という言い方をするのだが、普通の知識でもそれは構造として同じだと思う。自分がこれから学びたいと思っている(つまりまだ知らない)ことについて、教師がどれほど知っているか、正しく知っているかは学習前の弟子や生徒に判るはずがない。選択の根拠で一番多いのは風評だろう。自らを正しいと思わせたいインチキ教師は、そこで先に有名になる方法を画策したりする。有名だから正しいという論理。

確かに、「あれだけ本を出していたり、TVに出ているのだから間違っているわけがない」と思う消費者は多いだろう(例:Dr.コパ)。また、自分の知らないものをとりあえず否定するような人は、「そんな凄い人(あるいは方法)が存在するならどうして知られていないんだよ!」とか言い出すのだな。「絶対儲かります」とかいう怪しい商法に対してなら良い態度だと思うが、知られているのと内容がいいのは基本的に関係ないと私は思っている。例えば、コカ・コーラや味の素は体にいいのか、と言いたい。

それから、本物は隠れているという考えで探す人もあって、ひたすら裏へ裏へと細い路地へと入っていくのも見る。本物を探し出せなかったけど、ニセモノ体験が増えることが多いような気がする(あくまで気がする)。

ましなパターンは、自分がずっと疑問に思っていたことが、教師との出会いによって氷解するというものだろう。

一方、ダンテス・ダイジはこう言った。

「正しい師とは、文句なく、その人物に全面信頼や愛情を持てるということであり、したがって、このさい、その正しい師が、本当に悟りを開いているかいないかなぞ二義的問題にすぎない」(『アメジスト・タブレット・プロローグ』森北出版 強調は引用者による)

瞑想法は知識になりえても、瞑想は知識ではありえないということによるのだろうか。

ダイジはこうも言っている。

「正師の発見は、あなたの全身全霊的直観による。その全身全霊的直観が、全面的信頼を自発自起せしめる。

あなたに、正師との出会いによっても、全面信頼が生起しないとしたら、あなたは、あなたの人生というドロ沼を、もっと徹底的に真摯に生きてみねばならない」(『アメジスト・タブレット・プロローグ』森北出版)

グルジエフ流にはこう。

「探究者は誰も、知識を持つ先達を夢想し、想像をめぐらすが、自分自身については指導される価値があるのか、道に従う覚悟ができているのかということを、客観的に誠実に問うことは、めったにない」(『グルジェフ・弟子たちに語る』めるくまーる )

ところで、教師が本当に知識を持っていたとしても、教えるのがうまいかどうかはまったく別の問題だ。普通の知識に関して言えば、一流の学者が学生相手の授業がうまいとは限らない。うまい授業の講師が一流の学者であることは少ない。よく言われることだが秀才は家庭教師に向かない。生徒がどこでどうしてつまづくのか秀才家庭教師には理解できないからだ。

ここで少し話題が変わってくる。命がけの求道・修業ならば、弟子の覚悟は問われるべきものだが、サービス業のようになったらどうなるのか?

いつだったか、駿河台予備校のやり方に異を唱えた予備校の校長のインタビューを見た。今はどうか知らないが、私が受験生だった頃は、明治大学を受験して落ちたと思って、駿河台予備校の午前クラスの選抜試験を受けたら落とされ、その後、明治から合格通知が届いたという人もいた。
つまり、駿河台予備校は予備校なのに大学に入るのと同じくらい難しかったわけだ。

異を唱えた側の予備校の校長の主張は、<<最初からデキル奴を集めておいて、これだけ合格しましたと言ったところで、そんなのは予備校の手柄でもなんでもない。うちはできない生徒でも受かるところまで持っていく。それが予備校の仕事だ>>というものだった。
その趣旨に私は好意を持ったものだ。けれど、その予備校の生徒が東大合格者の中で駿台の比率を覆すことはないだろう(というか、その異を唱えた予備校が現存するかどうかも私は知らない)。
もし、勉強のできない人間を短期間でできる人間にする方法があるのなら、それは優れた方法だろうと私は思うが、東大入学者数で結果判定する人なら、その方法(予備校)を優れているとは言わないだろう。

判断基準をどこに置くか。

誰向きの優れた方法であるのか。自分にとって優れた方法とは何か。

教える相手を選別するか否かは教える側の自由だ。しかし、いったん選別しないという選択(資格不問)をとったなら、前述の異を唱えた予備校校長のような態度が要るように思う。

師弟関係ならば、教師は弟子・生徒の覚えの悪さを嘆くことはできる。それを叱責することもできるだろう。が、資格不問のセミナー形式にしたならば、忍耐の限度はあるだろうが、生徒の質を嘆くことはできまい。サービス業としてセミナーの場合、生徒は客である(客としてふんぞり返るような生徒は心がけが悪いが)。そして、師弟関係として弟子や生徒を迎えて全然、弟子・生徒が変容しなかったのに、同じ教師が資格不問のセミナーで人を変容させられるとは私には思えないのだ。

それなりの覚悟をもって入門し、限られた人数で何年も就いていて変わらなかったのなら、特に覚悟もなく資格もなく来る人不特定多数に教えて変えられると考えるのは、腑に落ちない。いや、もしそれでセミナー受講者の方がどんどん変容するなら、いいことなんだろうけど、なんか弟子だった人たちが哀しく思える。

それから、セミナー受講者をセミナーを受講したということだけで、弟子(命令できる相手)扱いする教師は方法論を取り違えていると思います。

とりとめないが、一応終わる。わが道はどこへ。


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