乗り物としての「私」

【随想の目次に戻る】


「ツインピークス」を見たのは映画版の「ローラ・パーマー最期の7日間」が最初だった。うちに泊まった友人が置き忘れていったビデオを見たのだった。それからTV版を見た。2日間で全部見た。濃縮した時間であった(ただ、結末については投げ遣りなようで感心しない)。

TV版の話は猟奇殺人から、あらぬ方向に展開し、プロジェクト・ブルーブックなどの名前が出てくる(ブルーブックは1952〜1969年に米空軍に実在した未確認飛行物体探査プロジェクトである)。

様々な事件を裏で操作していた元FBI捜査官で享楽殺人者のウィンダム・アールの目的は、ブルーブックの調査でその存在が浮かび上がった、ボブたちブラック・ロッジ(簡単に言うなら悪霊たちの集まり)の力を手に入れることであったと知れる。

クーパーたちを出し抜いてブラック・ロッジへの入口を見つけ、中へと入っていったアールは、ボブたちを従えて力を手に入れるどころか、ボブにあっけなく敗れる。格がまったく違ったという感じだ。恐らくアールの魂は喰い尽くされた。利用しようとして召喚した精霊に、逆に殺される魔術師寓話の現代アメリカ版というところだ。

常套句で言うなら「身の程知らず」ということになるのだろう。

「ローラー・パーマー最期の7日間」を見ていて浮かんだのは「救われない魂」という言葉であった。ローラは自分が汚れていることを知っている。救われたいと思っている一方で、天使でさえ自分を救うことができないと思っている。死の直前にローラは天使の臨在を見る。そして、運命を受け入れたかのように父親(ボブが取り憑いている)に虐殺される。あの時、ローラは自分が救われないと思っていたが故に救われたのではないかと思う。

ローラが行った先は、ロッジの中と同じに見えるから、決して天国ではなかったろうが、天使はそこに降りてきてくれた。自分が許されると思っていない(罰せられるべきと思っている)ローラにとっては、ありえる恩寵とはあれ以外なかったのかもしれない……。全部、彼女自身が決めているのだが。

一方、アールはどんなに汚れても自分は大丈夫と思っていて喰い尽くされる。きっと、救われることは世の終わりまであるまい。

力を過信する、あるいは自分を過大評価する。これは誰にでもある。自我の感覚自体がそもそもどうあったって自己中心的なのだから(自分だけ特別に不幸と考えたり、行き過ぎた自己卑下も自己中心的という点では同じ)。が、自我そのものが自我のために用意されたのかは考えてみると心安らかにはならない。

自動車に自我があるとしよう。持ち主がその車に乗って、豪華な場所を巡る。自動車は自分は豪華なの所に縁があるのだと思う。そして、それを自分の力だと疑いもなく考える。持ち主が新車に乗り換えると、元の車は豪華な所へ行くのには使われなくなる。自動車は自分の力が何故なくなったのか訝しがり、過去の栄光を懐かしみつつ、現在の不遇をかこつ。

事の次第を知っていれば、自動車自我が持った力の感覚への陶酔も、不遇への嘆きのも馬鹿馬鹿しい。自動車は持ち主に運転されていただけなのだから。

人間の場合だって、自分の成功だったり、自分の力だと思っていたものが、実はある種の乗り物として使われていた結果であったということはある。

これは憶測だが、アールは自分でブラック・ロッジに近づいたと思っていたが、実はアールの方が、ブラック・ロッジにおびき寄せられて「収穫」されたのではないか。悪に染まった魂を吸い付ける磁力のようなもので。さらに言うならロッジは悪の餌を放流して計画的に漁をしていたのかもしれない。アール以外にも喰い尽くされた魂が累々ということも想像できる。アールが敗北したときの、あの間抜け面。あれは反面教師だ。

「その本性上、死をことさら憎悪もしくは恐怖するものをブラック・マジックという」とダイジは言った(『アメジスト・タブレット・プロローグ』p177)。

享楽殺人者は死を好んでいるのではない。自分の思い通りに死を扱えることを示して、自分は死を超えていると証明したいのだ。これは見当違いの力への意志だと思う。死に至らなくても暴力(肉体・心理を問わない)を扱う人間は同じ罠にはまる。自分は暴力を振るえるが故に暴力を超えている――、それは不可能な証明だ。特別に暴力的な人でなくても、「報復」という考えを持つ場合、同じ構造にいると思う。

「何事も他人事だと思っている限りは成長しないのだよ」

師匠が以前、言っていた言葉である。味わう機会が多い。
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送