悪意のユートピア

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 > 肉体の同一性で誰であるかを特定するのが、困難になる時代が来るかも知れない。

 > 入れ替わりが頻繁に起こる多重人格者ばかり住んでいる都市とか。

という末尾を「不確かな人格」に書き終えたところ、以前に書いたことを思い出した。

 2000年4月、私は珍しくたて続けに映画を見た(映画自体、滅多に見ないので)。一つは「アナザ・ヘヴン」、もう一つは「ケイゾク」。「悪意」についての関心から二つの映画を見たのだった。犯人が肉体から肉体に渡り歩くような存在であるという点では似ている(肉体から肉体に渡り歩くような「悪意」の主体というと、大塚英志原作/田島昭宇作画の劇画『多重人格探偵サイコ』もそうですね)。しかし、悪意のありようは二つの映画で全く違った。

「アナザ・ヘヴン」の犯人であるナニカは、誰一人悪意を抱かない世界が単調すぎてつまらないから、みんなここ(現在)に帰ってきたくなるのだと言う。現在の世界こそが、(「悪意」を実現できるがゆえに)もう一つの天国であると彼は言う。

「ケイゾク」の犯人の朝倉は、「憎しみを捨てよ」と言う。そして、俺と一つになって永遠に生きよう、と。刑事の方が「お前となんか一緒になりたくない」「憎しみは必要だ」と言ってのける。

片や個のない永遠状態に耐えられなくて犯罪を犯す(「アナザ・ヘヴン」)。片や個を滅した永遠の融合状態へと向かって犯罪を犯す(「ケイゾク」)。ベクトルはまったく逆だ。

人格(個性)が個としての自己主張を続けるか、合体と拡張を続けるかで、たどり着く極限状態として、次の二つが考えられる。

アナーキーによる自壊(バベルの塔状態) 各自が勝手の限りを尽す世界。バベルの塔状態とは、ある意味で自由の極限みたいなものだろう。自分の言葉が完全に自分独りのものになっているのだから。が、その言葉は誰にも通じない。

ファッショによる腐敗(洗脳が行き届いた支配) 勝手なことは何一つ許されていない世界。そこで理想とされる人格を全員が模している。あるいは模さないと生きていけない。

エントロピーが極大化した後の熱的死(アナーキーによる自壊)も、最初から故意に均質化した状態(ファッショによる腐敗)も「のっぺり」している点では似たようなもののように思える。

ファッショが単調でつまらないと思う個体が出現したら、「アナザ・アナザ・ヘヴン」が起こるのだろう。ろくなループと思えない。が、実際に人間の歴史は、この二つの極限状態の間を右往左往しているだけなのかもしれない。

そこでコペルニクス的に展開すると、クリシュナムルティが出てくる。というか出てきて欲しい。

「あなたが世界である」と。この世界は自分の内面が展開したもの以外の何物でもないということ。自らの存立を省みることなく他へ向かうのが間違いの始まりとなる。

それでも悪意を持つというならば、そいつは趣味で悪意を持つのだろう。
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