不確かな人格

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 2001年1月19日、日誌にあるようにダンディ社長と話した。その話の中で、ダンディ社長の母親が痴呆症になっているということが出た。

「昔は小うるさいババアだったんですけどね、痴呆症になったら可愛いおばあちゃんになっちまいやがって」

とダンディ社長は淡々と述べた。また、知人には逆の例があることを話す。つまり、人のいい人だと思われていたのが、痴呆症になったら猜疑心の塊みたいな人間になってしまった、と。そして、いったい人格って何なのでしょうね、と付け足した。

もっとも、痴呆症になっても、回復することはある。それは生の声で聞いたことがある。大学生の時、掃除の日勤の仕事(ビルのフロアやトイレを毎日清掃する)をしていたとき、現場の一つで一緒に働いていた大平さんは当時で確か77歳だった。いったん痴呆症になりかけたと大平さんは話していた。

「リウカさんね、自分の名前もわからなくなるんですよ。1+1もわからない。だから、一生懸命、ノートに自分の名前を書き取りするんです。1+1=2も何ページも何ページも書き取りするんです」

孫ないしはそれ以下の年だった私に大平さんは丁寧に話してくれた。大事に育て頼みにしていた息子は働き盛りで急死し、家計を支えていた夫も病気で倒れ寝た切りになってしまい、自分が働かなくてはならないという事態になって、必死になって書き取りを続け、痴呆症から生還したという。

(痴呆症そのものの話からは少し脱線するが、自分が77歳になったとき、こんなに働けるだろうかと考えると、まったく自信がない。)

痴呆症はちょっと経験してみようと思ってできることではないが、アルコールに酩酊すれば、普段の人格は容易に消える。そちらが本性だとは私は言わないが、消えることは確かだ。

何が引き金になるかは別にして、痴呆症やアルコール中毒は脳の状態で症状が決るのだから、人格というものは脳という臓器によって支えられている部分は確かにある。人格が変わることが恐いのなら、一つには脳の状態を健康に保つということが大事になるだろう(調理にアルミ鍋を使わないとか……)。

が、しかし――。多重人格の事例を見ると、そうとも簡単に割り切れない。多重人格については本やら映画やら一杯ある。私はそれらをつぶさに見たわけではない。ただ、ある時、(遠いアメリカの事例ではなく)日本に現在生活している多重人格症の女の子の日常をTVで放映されているのを見た。

本人談によると、授業中にふと気がつくと自分の字ではない字で奇麗にノートがとってあり、不思議に思ったという。彼女は勉強が大の苦手なのだった。症状が進行した状態では、5人程度の人格が入れ替わり立ち替わり現れるようになった、と番組では説明していた。その5人は年齢も声も筆跡も違った。それぞれ違う名前を自分で名乗った。収録している最中、その女の子の彼氏が横にいる状態でも転移が起きた。変わってしまった人格からすれば隣にいる男の子は彼氏でも何でもない。

その番組で解説に登場した精神科医は抑圧された人格が分裂して云々と言っていたけれど、肉体年齢の彼女よりはるかに年が上で学校で習ってもいないし元々の彼女がおよそ知るはずのない知識まで持っている人格が、抑圧云々で説明がつくのか非常に不思議だった。前近代的に「憑依されている」と言った方がよっぽど判りやすいのではないかと思った。

肉体的・心理的基盤が弱まると人格は簡単に変わるものだというのが、現象面における結論になる。別に多重人格云々など言い出さなくても、自分でこれだと思っている人格に確たる根拠などないことは、よくよく自省してみれば判る。10年前の自分――そういう表現の仕方が既に同一性に基づいているのだが――が今の自分とどう同一なのか。何が同一なのか。肉体の(外観の)連続性を除けばほぼ何もない(細かいことを言うと、体中の細胞は7年程度で入れ替わっている)。

とはいえ、そうした度合いを超えて、肉体の同一性で誰であるかを特定するのが、困難になる時代が来るかも知れない。入れ替わりが頻繁に起こる多重人格者ばかり住んでいる都市とか。
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