非情のライセンス

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 スチュワーデスのRから以前、聞いた話。

 1985年8月12日夜、乗客、乗員合わせて524人を乗せたまま群馬県と長野県境の御巣鷹山山中に墜落した羽田発大阪行きの日本航空123便ボーイング747機のことは、報道を通じて知っている方は多いだろう。死者500名を超える航空史上、屈指の大惨事となった。

 だが、事故後、航空会社が密教寺院に祈祷を依頼したことはあまり知られていない。関東と関西のある密教寺院から選抜された各50名、計100名が事故現場近くで一週間にわたって読経し、祈祷したという。

 そして、そのたった一週間の間に3名の僧侶が絶命したとRは話した。

 内2名は、その日の祈祷の終わった夕方、「ちょっと山を見てくる」などと言って、そのまま戻らぬ人となった。先輩格の僧侶は、彼らが戻らぬという報に接し、静かに「どうやら、やられたらしいな」とつぶやいたという。

 山には淋しい霊がいっぱいいるらしい。仲間を増やすことで自分の淋しさを紛らわすのだ。

 3名目の僧侶は、僧侶が揃って読経している最中に絶命した。絶命する直前に、急に後ろを振り向いた彼の顔の半分は既に骨と化しており、ふり返られた方の僧侶も一瞬、虚を衝かれた。もちろん、改めて絶命した彼の死体の顔を見てみれば骨など出ていなかった。ただの死体であった。

 おそらく、彼も取り憑かれたのだろう。取り憑かれた感覚の不思議さに、「ね、俺、どうかなってる?」と確認したくて、振り向いたのではないか、と私は推測する。

 東西の寺院から選抜されてきた彼らはいわばエキスパートのはずだ(実際にどういう選考基準だったかは私は知らないし、Rも知らない)。その彼らが、化け物でもない一般人の死者を弔おうとして討ち死にする。

 厳しい言い方なら絶命した3名は「未熟者」ということになるかもしれない。しかし、エキスパートですら、そんな最期を迎えることを考えると、護身法も結界法も知らない一般人が、人の無念や怨念に巻き込まれて、平気でいられることがあるのだろうかと思ってしまう。

 安易に人の念(心理領域)に関わることの恐ろしさ。

 貴方がたいらけく、やすらかでありますように。
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