命の価値

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子供の頃、平気で蟻を殺した。「機銃掃射!」とか言いながら、皆殺しにした。

その一方で、部屋の中に紛れたコオロギを助けようとして、外に放したことがある。その直後に兄が帰ってきて、もしやと思い、兄の靴の裏を見たら潰れたコオロギが張り付いていて、それを見てショックでずっと泣いた。

「命は大事」だと言われる。でも、本当にそうなのだろうか。それが私のずっと引っかかっている疑問の一つだ。

私が菜食であることを知った人の内の何割かは「でも、植物だって生物でしょ」と揶揄する。確かにそうなのだ。私が家族の中でただ独り、菜食に切り替えたのは、まだ家族と暮らしていた高校生の頃のことだ。生類を殺すことに関わりたくない、という思いは確かにあった(だが、理由のすべてでもない)。植物も殺したくないので、無機物を生成した薬剤で食事の代用ができないのか、本気で考えた。

(少し脇道に逸れるが、鬼の首をとったかのように「植物だって生物でしょ」と菜食を非難する人たち向けの話を少し。じゃあ、生物ならなんでも食べるのかと言うならば、ゲテモノ悪食グルメだろうが、決してそんなことはあるまい。だから、それは単に嗜好の問題なのだ。「菜食主義なんですね」と聞かれると、私は大抵「いえ、菜食生活です」と答える。主義というほどのものではないからだ。主義でそうしているのではない。肉を食べる人に「あなたは肉食主義なんですね」とか、米を食べる人に「あなたは米食主義なんですね」とか一々言うだろうか。)

ジャイナ教徒が、虫を殺すことをしたくないがために、農耕には従事せず、主に商工業についていると本で読んだとき、それって単に自分の手を汚さないだけではないか、と思った。

植物云々以前に、土の上を歩けば、それだけで数千もの生物が踏みつけられて死亡し、呼吸をすれば、吸い込んだ空気の中にいた雑菌は体内で殺される。他の生命を犠牲にせずに生き長らえる生命体など存在しない。

だから、論理で考えれば命など、かほども重要ではない。「命を大事にしましょう」というのは何かしら限定を設けなければ嘘か偽善だ。生物分野の研究者や医療従事者の中に、時折、いわゆる社会常識から見て非常に残酷な行為をしてしまう人がいるが、「生命を扱っているのに何で?」と問うのは間違っていて、恐らく一般人が接する以上に対象としての生命に接しているがゆえに残酷になれるのだ。本人にしてみれば残酷でもなんでもなくて当然の帰結であるかもしれない。

私自身はカトリックの考えは好きではないが、人間だけ特別で、人間以外の生物は、神から人間に託されていると考えるのは理論としてはスッキリしている。その前提を受け入れていれば、悩まなくて済む。

でも、命など重要ではない、と論理的帰結に至っても、目の前で死にそうな人がいたら、特に自分が知っている人が死にそうだったら、やはり助けるだろう。助けられなくても助けようとするだろう。それは論理ではない。衝動だ。

これが渇愛(アーラヤ)ということか。

ある日、目が覚めると弱々しい自分がいた。体を起こすどころか、身動き一つできず、声も出なかった。よくマンガで自分の命がローソクで、その火が消えると死ぬという表現があるが、その感じがよく判った。自分の命の火がまさに風前の灯火であるということが、確かなこととして感じられた。自分が死ぬということが確実だと直覚された。誰にお別れを言うことも無く、このまま死ぬのかと思うと少し寂しかったけれど、仕方がないと諦めた。目をつむるとあっと言う間に深い眠りに落ちた。眠っている間のことは何も覚えていない。どれくらい時間が過ぎたろうか、深海艇が急浮上するかのように眠りから醒めた。理由は自分にも判らなかったが、私はゲラゲラ大笑いしながら眼を醒ました。笑いながら眼を醒ましたのは生まれて初めてであった。その笑いには命そのものを笑い飛ばすかのような生命力があった。
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