栄光と敗残

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 出羽湯殿山は土中入定の即身仏が有名である。俗にミイラ仏と言うが、エジプトのミイラとは製法においてまったく違うものである。湯殿山で即身仏となった行人は、有名な真如海上人(瀧水寺大日坊)の他に、鉄門海上人(朝日村大網・注連寺)、鉄竜海上人(鶴岡市・南岳寺)などがいるが、そうした行人のほとんどは、殺人容疑者、極貧者など社会構造から疎外されざるをえない境遇から行人への道に入っている。

 寺に入っても彼らは、寺の中でも最下層の身分「一世行人」であった。逆に即身仏になった者は全て一世行人の出身で、他の階層からは一人も即身仏になった者は出ていない。衆生救済を祈願し即身仏になることで一世行人は“賎”から“聖”への転化を成し遂げたのである。一世行人は木食(稲・麦・粟・豆など食事を断つ)しか許されなかったという。

 即身仏になる前の千日以上に及ぶ木食行の中で衰弱死する者、修行を捨ててしまった者が多くいたという。飢えに耐えかねて行場からふらふらと抜け出て、ふもとの村で食べ物をあさっているところを農民に撲殺されるという無残な最期を遂げた者も一人ならずいるらしい。彼らは仏門に入りながらそれを汚すようなことをしたということで、単なる盗っ人以下と認識された。永遠の敗残者と烙印を押され、社会的に認められることは決してなかった。

 一世行人は木食行を完遂し、即身仏になることにしか“聖”になる可能性がなかったのである。孤高の不可能性と言って良いかも知れない。カフカは『断食芸人』を書いたときに彼ら一世行人のことを知っていたであろうか。

 千日から数千日にわたる木食行の後、生きながら木棺に入り、土中に埋められ、この中で鉦を叩き読経しながら死んでゆく。3年3箇月後に掘り出してもらい、洗い清められてそれから祀られることになる。

 しかし、後を託した信者や弟子が離反したり、行人より先に死んでしまったりで、掘り返されることなく忘れ去られた行人もいる。特に明治維新直前に土中入定した行人は、明治政府の禁止令によって全員無念のまま土中に浅された。そうした行人の亡霊の話も多くあったという。近年、湯殿山の参篭所の近くに駐車場を作ったとき、それと思しき人骨が数多く掘り出された。その遺骨は集められ、現在は慰霊碑が建てられている。
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