捨身

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 高校の時、友人の一人が私を主人公にしたショートショートを書いた。私が道を歩いていると、物乞いに出会い、出会うたびに持ち物を私が与え、裸になって歩いていった先では不具者に出会い、手や足や、果ては目や鼻まで与え、芋虫みたいな存在になってしまうという話だった(手塚治虫の『どろろ』みたいですな)。彼はゲラゲラ笑っていたけれど、何が真意なのか聞く機会はなかった。

 もう何年になるだろうか。九州であった出来事だ。3歳と4歳の女の子が公園で遊んでいたら、突然、大型犬に襲われ、4歳の女の子が泣きながら囮になり、3歳の従姉妹を助け、自身は犬に噛み殺されるという事件があった。このことをニュースで聞いたとき、その4歳の女の子の文字通り身を挺した行動に私は涙を禁じえなかった。自分が4歳だったら、そんなことが出来たろうかと考えた。4歳はとうの昔に過ぎたけれど、これほどの勇気が自分にあるだろうかと考えると心許ない。

 薬子の乱で廃位され、仏門に入った高岳親王(僧名は真如)は、空海の十大弟子に数えられるほどになったが、それに飽き足らず、その晩年、仏教の根本を知りたいと唐に渡ってインドに向かい、消息を絶った。後に唐に渡った日本人僧からは、どうやら高岳親王はマレー辺りで虎に食われたらしいという報告が届く。享年七十余年。

 この虎に食われたという話には二つバージョンがあると聞いた。一つは、虎が出てきたときに、空腹なら自分を食べよと泰然として食べられたという話。もう一つは、虎が出てきたときに、自分は高邁な経典を究めるために勉学してきたし、仏典を探しに行く途中なのだ、虎になんか食われてたまるか、私は僧なのだぞと自分の大切さを声高に訴えたけれど、そんなこと気にも留めない虎に、じたばたわめいている高岳親王があっけなく食い殺されたという話。

 どっちなんでしょね。高岳親王が、ではなく、私やあなたは。

 異国の地で野垂れ死にする――。異国でなくても野垂れ死にする。思い半ばで死ぬなら、どこで死のうが野垂れ死にだろう。

 捨身――。何に捨身できるか。

 ところで、澁澤龍彦は高岳親王を題材にして戯作『高丘親王航海記』をものしていましたね。作中で突然、現代の病院設備(執筆当時、病床にあった澁澤自身の投影)が出てくるところしか、印象に残っていないけど。

 この戯作での高丘親王(この作品中の名前は高岳親王ではなくて高丘親王)は、マレー近くで姿なき声に質問を受ける。天竺(インド)に辿り着いてから死にたいのか、それとも死んでから天竺に辿り着いても構わないのか、と。高丘親王は、時間差がないのならどちらでも大した違いはないと答える。すると、声の主は、それなら国境付近の虎にその身を捧げて虎の胃に入って天竺に渡ったらどうかと提案する。釈迦の本生譚(ジャータカ)に虎に身を捧げる話があるからだ。もともと貴族で洒落好きの高丘親王は、その提案をいたく気に入り、国境のジャングルで早く虎に食べられたいと思いながら弥勒宝号を唱える。まるで子供みたいに。
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