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イエスを夢に見る

幼稚園が仏教系(その名を光明幼稚園といった)だったこともあって、子供の頃から自然と、お釈迦様は尊敬していたのですが、大学生のある日までイエスが嫌いでした。

大言壮語して、行き先々で人々を扇動し、心配してやってきた家族は無視し、黙っておくようにと言って行なった奇跡は、誰も約束を守らず、みんな宣伝されて、いちじくに実がないといっては呪い、あっけなく捕まって、磔にされて「我が神、我が神、なぜ我を見捨てたまひしか」と嘆く……。

馬鹿としか言いようがない、と思っていた。思い込みの強い目立ちたがりじゃないかと。

しかも、世に「救世主」と呼ばれていたのが、癇に触った。人類の罪を負うために磔にされた、と言われても現実の人々は救われていないじゃないか!という怒り、「助けてくれ」とアンタに頼んだ覚えはないよ、というひねくれもありました。

そんな、ある日、イエスを夢に見ました。

映画のラッシュを薄暗い部屋で見ているような感じで、人類の誕生(『2001年 宇宙への旅』の類人猿のシーンの雰囲気)からイエスの磔刑までを早廻しのように夢見た。

間近ではなく、遠くからイエスが磔にされるのを見ていた。確かに世の終わりを思わせる暗さであった。

目が覚めて悔恨で一杯になった。申し訳ない、申し訳ない、とにかく申し訳ない。

それから、イエスが言っていることも、理解しようと思い直しました。

ゲッセマネで「目を覚ましていなさい」という師であるイエスの言葉を、直弟子さえ守れないというのが非常に恐ろしい。イエスが選んだ弟子でさえ、眠りこけて祈ることができない……。


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