日誌2001年9月

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9月某日

商店街を歩いていると、向こうからB社で同僚だったY本が歩いてくる。彼が住んでいたのは隣駅だから、別に見かけるのは特別不思議というわけではない。とはいえ、前に見かけてから1年以上経っていたかも知れない。それよりだ。こっちは彼の方を見ているのだが、彼はこちらを見ない。無視しようとして無視しているのではなく、独りでぶつぶつつぶやきながら、独りで笑ったり怒ったりしていた。異様である。

彼も壊れてしまったのかなとふと思った。


9月27日

この日の仕事が終わるのが遅かったのだけど、帰り道で、初めて会った猫に手を差し出したら、すり寄ってきて撫でられてくれたから良い一日の終わりであった。飼い猫で毛は綺麗だったけど、骨がごつごつしていて結構な歳なのではないかとも思ったが、猫の気持ちよさそうな顔を見てずっと撫でていた。


9月24日

母と弟と父の墓参りに行く。父の墓の墓相があんまり良いように思えなかったので、何かしらアイテムでどうにか修正しようかと考えていて、お骨と一緒に法具でもしまっておくかとも考えたのであった。家で弟に、あれってセメントで固めていないかなと尋ねると、固めたら次に入れられないじゃないと笑われた。そういえばそうかと思っていたが、墓に着いて見てみたら、セメントで塞いでいた。イタズラ防止なのだろうか。

墓参り自体はすぐに終わってしまい、母が一緒に昼食を取ろうと、なんでかわざわざ自由ケ丘に行った。この駅を利用して生活していた時代もある。10年ぐらい前のことだ。

昭和40年代から、内装変わっていないんじゃないの?という中華料理屋を母は選んだ。丁寧だが垢抜けない店。中華とは言えやたら脂っこい料理だった。

食後に散歩。随分と店が変わっている。オシャレっぽい店が姿を消している一方で、カルトなビデオばかり扱っているレンタルビデオ店が生き残っていたのが、少し感動的。私はここで「天国注射の昼」とか「W・ライヒ――オルガズムの神秘」とか借りたのだな。よく成り立っているものだと思う。

弟が、新しく開店したはずのヤマダ電気を見てみたいとあてずっぽうで移動。が、弟の推理は正しかった。途中、よく利用していた自然食品店のナチュラルハウスがセブンイレブンに変わっているのを見て、少し哀しくなる。よりによって自然食品店からコンビニエンスストアというのは皮肉のようだ。

散歩を終えて、一旦家に帰り、仏壇に墓参りの報告を母がし、たどたどしく般若心経をあげる。全然うまくないのだが、息子ながら胸を打たれた。3人で夕飯を食べビールで乾杯。

母にお金のことでまた心配をかける。父さんの病気が悪くなったのは、お前の借金を心配してからだと初めて言われて、愕然とした。

夜になって母の家を出て、自分の育った街を駅へと向かう。時間の経過とは一体何なのだろうと、ネオンの浮かぶ夜空を眺めて思ったりした。


9月23日

Lと後楽園に行く。水戸藩の庭園だというのは知っていたが、「中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなもの」(パンフより)というのは初めて知った。名前の由来になったという『岳陽楼記』という本は、中国では非常に一般的なものであるらしく、「これ、中学校で、みんな暗唱するね」とLが言う。そうなんだ。

面積から言っても、前に一緒に行った新宿御苑とは比較にならないわけで、開けた芝生ではなくて、庭園の造形を楽しむ庭園なのだろう。中国のミニチュアであるわけだが、Lに言わせると、ちっちゃすぎてなんだかなという感想らしい。そりゃ、日本に中国の皇帝の庭園は再現できないだろ。庭園の真ん中に池があって、またその池の中に蓬莱島という小島があって祠が祀ってあった。ちょうどいいや、と思って、弁財天の真言を池のRになっているところで唱えてみた。金運でもあやかれないかな、と思ってのこと。Lは何してるの?という顔で見ている。

池の鯉はみんな異様にでかい。「これ、恐らく1匹で数百万円するよ」と情緒のかけらもないことを言う私。Lはその金額を聞いて驚く。

歩きながら雑談。10月になったらヴィザが切れてしまうらしい。それでも滞在していることはできるが、今度は帰れないという(超過滞在がばれてしまうから)。故郷に帰って、家族と旅行をしたいとLはもらした。住むのは日本に住みたいのだが。

好きでもない人と結再婚する(だからヴィザは大丈夫)と前に言っていたじゃないのと尋ねると、結婚はやっぱり好きな人としたいと言葉を濁した。

そんなに広くないのですぐに散歩は終わってしまった。遊園地の後楽園にも行ってみたいというので行ってみる。遊園地に来るなんていつ以来だろう。20年ぶりだろうか。落下系のものばかり遊んでみた。

Lと出歩くときはいつもおごっていたのだが、手元不如意なのでおごれないよ、と言ったら、今日は私が出すよ、とLが言うので、Lにおごってもらう。スパゲティとピザを食べる。

とはいえ、仕送りだけでなく、日本に来るためした借金も月月返済し、のみならず、これはこの日に聞いたのではないが、中国にいたときの元恋人に懇願されて借金の保証人になっていたところ、その男が失踪したとかで、その返済もしているのだという。そんな中国人女性におごってもらう私はどうよ。下の下か。

私と一緒にいると落ち着くとLはいつも言う。そして、私の目を見ていつも「猫みたい」と言って笑う。

最後に乗った乗り物は、自分で漕ぐカート。夕闇のおりた水道橋からの夜景を、二人でペダルを漕ぎながら見ていた。二度と見ない、あるいは同じような日常の中でも決して再現されない、その風景の一コマを大切にしたいと思いながらペダルを漕いでいた。


9月8日

一つの節目に丁度いいやと思い、携帯電話を購入。すぐさまYに知らせる。というか、Yがいなかったら携帯電話を購入する気にならなかったろう。

渡辺中『無我の悟り』(武田出版)という本を買う。書店で手に取って初めて知った本なので、著者については中に書かれている以上のことは全然知らない。が、値段相応の内容がありそうなので買った。


9月5日

女性社員の一人、IMさんが、ダンディ氏と長々としたメールのやりとりで険悪になる。

8月3日付けで退職したSMさんの給料の支払いを、ダンディ氏がまったく忘れていた(給料は氏自らが銀行に行って振り込んでいる)のだが、出勤日を正確に教えろと、SMさんからクレームの電話があってからIMさんに命令したのであった。出勤の管理をしている人間など社内にいないし、出勤の予定を記録するものはあるけれど、出勤そのものを記録したものは社内にはないのに、調べて教えろとダンディ氏が指示したことにIMさんはムカツキまくり。

のみならず「証拠がないなら払えないだろ」と書いてきた。

反論をメールで送ると、「暇なのかしら」とIMさんが言うほどながーい返信メールがダンディ氏から届く。

ちなみに論争を続けて、SMさんへはこの日も振り込まれなかった。何か逸脱している感がある。

ダンディ氏は「必ず、以下のことに返答するように」とメールでIMさんに説教。IMさんの、その日の仕事は、ほとんどそれに対する返事を書くことに費やされた。書いては消し、書いては消しの繰り返し。もう、返事を出さないで帰るとまで言っていたのだが、それはマズイだろうと思うので、私が下書きを代筆して、彼女が手を入れたものを送ることにした。

やり場のない怒りが暴発しそうな一方で、極限まで滅入っていたので、私にしては珍しく、飲みに誘った。

カラオケがしたいというので、1時間だけカラオケをした。彼女はビョークや、ミュージカル・CATsのテーマとか歌っていた。バンドを昔やっていて、演劇もやっていた(大学の専攻が演劇)ので、歌はうまい。私は、「蘇州夜曲」とか「見上げてごらん、夜の星を」とか「ひょっこりひょうたん島」などを歌った。

IMさんに「キレイな歌」と言われたのは悪い気はしなかった。「こんな会社にいないで、アニメの主題歌を歌う歌手になればいいのに」とまで言う。

少しは気分を持ち直してくれたようだった。良かった。


9月4日

サーバの扱いでまったく失念していたことがあって、先週末からの業務の混乱も一つは私が原因であった。

というわけで、ダンディ氏から始末書を書けと言われた。生まれて初めて始末書を書きました。とはいえ、ダンディ氏は今、ハワイにいるので、メールで送ったのだが。


9月3日

サーバの設定やら、ソフトの設定・操作で解らないことだらけ。一日費やしても、どれも解決しなかった。がっくり。

昼休みを利用して、OJに会う。以前は美容に異様なまでの力を入れていたOJだが、なんか手入れをされていない彼女の生足のスネを見て、趣味が変わったのかなと思った。昔は月に数百万円稼いでいたのが、今は、「話すとムカツクから絶対に言わない」という安月給で働いている。昔、ブイブイ言わせて稼いで貯めたお金も無職の数年間で全部使い切ってしまったと言っていたっけ。

お経の折り本を受け取る。使っていない人が持っているより、使う人が持っている方がいいと言ってくれた。ありがとう。

Yのこともあって、毎日、読経しているのだが、普段使っている折り本は、観音経は全段載っているけど、理趣経は途中が省略されているのであった。OJから戻ってきた折り本は、理趣経も全段載っている。小さいし、携帯にも便利。

護符はYに届いた模様。ありがとうございました。効き目があるといいのだけど。


9月2日

深夜、Yのための護符を書く。よくよく考えてみると護符を書くのは久しぶり。書き終えて、Yに会いに行く地元の友人に翌朝10時便で送る。

朝、私の愛読書の『瞑想の心理学』(法蔵館)の著者の可藤豊文氏からメールが届いた。驚き。

なんでも、ラジオに出演されるとかで、「講演などありましたら、お知らせいただけると幸いです」とずっと以前に私が書いたメールを覚えていてくれた模様。出演番組は以下の通り。 

 NHKラジオ
   <宗教の時間>
     講題「仏教における心の理解と瞑想」
      9月23日(日) 8:30〜9:00 (本放送)
      9月30日(日) 5:30〜6:00 (再放送)

お知らせを下さったのみならず、次のような文面があった。

> なお、『自己認識への道』は第1部では廓庵の『十牛図』を第2部では『トマスの
> 福音書』を扱っています。ご住所をお知らせ頂ければ、こちらからお贈りします
> が(3冊ともお買い頂くのは心苦しいので)。

恐縮するようなお申し出だけど、『自己認識への道』(法蔵館)も買って既に読み終えているのであった。知らせていただいたお礼と既に読んでいる旨、メールを書いたら、可藤氏から、今度は3冊とも買っていただいて恐縮ですとメールが来た。読者冥利とでも言うのだろうか。

近くにいらしたら(可藤氏は、京都在住)、絶対、教えを請うのに。残念。8月31日に、半年ぶりぐらいに可藤氏推薦の本を見つけられたことと共時性を感じる。

夕方、ハワイに出張に行っているダンディ氏からメール。メールサーバが不調なので、サーバ会社に連絡するようにとある。連絡先は会社にしか置いていなかったので、それだけのために出社。自分でテストするが症状は再現されず。

とっても嬉しい電話があった。過日、一緒に手をつないで散歩したときに歌った「蘇州夜曲」の歌詞を教えて、というものだった。僕らのテーマソングみたいとのこと。すぐに教える。


9月1日

OJから電話がある。何年か前に彼女にあげた、お経の折り本を使っていなかったら譲ってくれないかとメールで打診しておいたのだ。月曜に会うという話になる。

月月さんと待ち合わせて、映画「テルミン」を見る。月月さんは、宣言通りハーフメタルジャケットで登場。おまけに黒づくめ。どんな姿か解らないという声が掲示板にあったのでヘタクソながらクロッキーを掲載するので、それを参照して下さい。買ったまま、この日まで着たことのない服だったとか。お披露目ですね。

月月さんの本分は、人形作家です。上の2点は、彼女の作品の一端。

テルミンは史上初の電子楽器で、その名前は昔から知っていたが、その発明者であるレフ・セルゲイヴィッチ・テルミン博士(1896〜1993)の人となりは、全然知らなかった。雑誌の映画評で面白そうと思ったので、見に行ったのだが、これはアタリ!でした。映画の紹介はここをクリック。テルミンの演奏も初めて映像で見た。やっぱり不思議な楽器。空間で指をきゅきゅと動かすことで音階が変わるというのは、原理を説明されても不思議。どうやって、メロディーを再現できるのだろうと素朴に唖然としてしまう。

レーニンの前でもテルミン博士はテルミンを演奏したそうな。その記録映像があったら、さぞ貴重なのだろうが、それはなかった。

個人的には、ニコラ・テスラ(人類史上屈指の大科学者)を連想させた若い頃のテルミン博士。クールな2枚目です。そして奇麗な瞳。確かに、あの瞳で見つめられて、何か言葉をかけられたら、魅入られるかも知れない。

恋した女性(クララ)のために、近づくと回転し、キャンドルを模した電灯が点灯するバースデーケーキを作った、パーティーの模様が映画に収録されている。内輪の誕生会の様子なのだから、プライベート・フィルムのはずなのだが、それが1930年代であるということを考えると、凄い。フィルムが残っていることも凄いけど、当時、プライベートフィルムで撮影していることが凄い。やはり名士だったのだろう。

が、そんな地位も名誉も顧みず、黒人女性と結婚し、周りから絶縁されたらしい。クララのことは、映画の最初から最後まで出てくるのだが、この結婚した黒人女性は、影が薄い。どんな女性であったのか、ほとんど描写がない。テルミン博士は1938年には、拉致に近い形でアメリカから消える。二人の結婚生活は1年に満たないものだったことになる。哀しい。その後、冷戦終結までは西側ではテルミン博士は死んだものと思われていたという。

ところが、実際には強制収容所に送られて、強制労働させられていたのだという。その後、軍事研究に協力を余儀なくされる。強制収容所で人生がねじまげられる人も一杯いただろうに、テルミン博士は淡々としている。淡々と研究をしてスターリン賞まで受賞したらしい。

冷戦終結で生存が確認されたが、テルミン博士が再びアメリカの土を踏んだのは、ペレストロイカの後の1991年。よぼよぼと半世紀ぶりのニューヨークを歩く姿は、なんだか作家のウィリム・バロウズを連想させました。

映画の末尾近く、数十年ぶりに、愛弟子であり、恋人であったクララと再会する模様が収録されている。クララが、ほら、これが貴方に最初にもらったテルミン、色んな人が売ってくれ、と言っても売らなかったの、これは貴方の写真、特等席に飾っているのよ、と一生懸命説明するのに、「眼鏡を忘れた」とぽつりと言うテルミン博士。ここで私は笑いました。

数奇な人生なのに、すっごく淡々と生きた科学者の物語は、しみじみといい味わいでした。

ちなみに、上にリンクを張った映画の紹介によると、NHK学園で10月から「テルミン講座」やるそうです。何だか可笑しい。

映画を見終わって、映画館の外に出ると、野外で小津安二郎の「東京物語」を公開上映していた。嘘臭いようなイルミネーションを施された恵比寿ガーデンプレイスの広場の真ん中に、モノクロの小津映画が映し出され、それを黙って見ている皆さん。その情景自体が、既に終わってしまった地球の記憶の断片のように私には見えた。稲垣足穂が「地上とは思い出ならずや」と言ったのは、こんな感覚だったのだろうか。月月さんと食事をし、今度は映画「クイーン・コング」を見に行こうかという話もする。

帰り道、メタルジャケットの話をしていて、私に興味深かったのが、それが「非日常」の人と、「日常」の人がいるという話であった。月月さんにとってはメタルジャケットは「非日常」を楽しむものなのだが、彼女の通っている人形教室には、それが「日常」の人がいるのだという。粉だらけになる作業着もフリルが満載で、それがその人には当たり前なのだと。どんな場合もフリルとレース……。違う世界の住人のような気がする。

いったん、家に帰って、Y用の護符を作ろうと思ったら、足りない文具があることに気づき、あれこれ対策を考えて、新宿のドンキホーテに買い物に行く。初めてドンキホーテに入ったけど、ひどい店内。風水は完全に無視という感じ。

その帰りに新宿駅で(い)さんに会う。(い)さんに会うだけで奇遇だけど、月月さんと映画を見に行った晩に(い)さんに会うというのは、さらに奇遇だろう。映画の話とかする。


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