本雑感

本に関する雑話です。読んだばかりで書くこともあるでしょうし、

ずっと経ってから書くものもあるでしょう。

場合によっては、読んでもいない本についても書くかも知れない。

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書名 著者/訳者/編者 出版社
『奇跡を求めて』 P・D・ウスペンスキー 著

浅井雅志 訳

平河出版社

■『奇跡を求めて』

■P・D・ウスペンスキー 著

■浅井雅志 訳

■平河出版社 刊

 その筋では古典的な地位を確立している本ですね。モスクワ時代のグルジエフの講話録。

 この本のことを一番最初に書く理由というものがあるとするなら、2000年12月11日の日記に書いたように、このページの立ち上げとウスペンスキーの『ターシャム・オルガヌム』との間にシンクロニシティを感じたからということになる。それぐらいです。

 私が持っているのは1982年発行の第4刷。この本は古本屋ではなくて新刊書店で買ったはずだ。つまり、その頃、入手したのだ。何度か読み返しているが、やはり、この本に限らずどの本も、その時の自分の理解能力でしか読めない。当たり前であるが。

 私は本に書き込みをするのが嫌いなので、滅多に何かを書き込んだりしないが、この本にはうっすらと鉛筆で線が引いてある箇所が幾つかある。その箇所は何度読んでも、やっぱり気になる。そんな鉛筆で線が引いてある箇所の一つ――。

人間はしょっちゅう、ある人について自分は本当はどう考え、感じているかを、その人に誠実に言いたい、何とか示したいと強く思っている。もし彼が弱い人間なら、もちろんこの欲求に屈服し、後で自分を正当化して、自分は嘘をつきたくなかったのだとか、偽りたくなかったとか、誠実でありたかったなどと言い訳する。〔中略〕彼はその人のことを考慮しようとし、譲ろうとさえしたり、喧嘩すまいと心から望んでいた。ところが、その人の方は彼のことを考慮しようとは露ほども思っていなかったので、どうしようもなかったのだ。〔中略〕彼は最初は考慮するまいと決心するが、後になると自分を考慮してくれないという理由で他人を責めるようになる。(同書p248 ボールドにした箇所は訳書では傍点)

 要点だけ書いた本というと、同じウスペンスキーの『人間に可能な進化の心理学』(めるくまーる)の方が解りやすいが、上に引用した部分はグルジエフ自身の説明である分、貴重だ。

 人間が変容するためにはエネルギーが必要だが、普通の生活の我々は、それをことごとく浪費してしまっている、とグルジエフは言う。

 エネルギーの増産よりも、最初に取り組むべきは浪費を止めることだと。そして、浪費していることとは、

1)内的考慮

2)否定的感情の表出

3)自己同一化

 であると説明した。上に引用したのは、その内の「内的考慮」についての解説部分。他者を「考慮」することによって私たちはエネルギーを失い、状況の奴隷になっていく。

 最初に読んでから18年ぐらい経っていることになるが、この文章は、今でも自分にとって切実だ。そういう傾向は、ある。特に、好意を抱いた人に関しては。

 何らかの関係が壊れるときこそ、内面を見つめるには一番良い時だと前から思っていたが、最近それを再認識することがあった。ありがとう。


■『アメジスト・タブレット・プロローグ』

■ダンテス・ダイジ 著

■森北出版

ウスペンスキーの本より、ずっと何度も読んだ本である。人に貸したときに、その人が大事に扱わなかったせいもあるが、私の持っている本の中ではず抜けてボロボロである。

「開設の辞」で、「彼」と言っているのは、このダイジのこと。だったら、最初から名前を書けばいいだろうという声もあるかもしれないが、あそこには書かない方が良いと私には思えたのである。直観なので説明はできない。

私がダイジのことを知ったときには、ダイジはもうこの世にいなかった。それで、残っている弟子の人を訪ねたりしたのだった。「一夜の出来事」の絵は、そんな中で描かれた。

さて、この本には、アフォリズムというか、詩というか、ごくごく短い文章が多く収録されている。

それが、どのように素晴らしい体験であろうと

醜悪極まりない体験であろうと

体験が体験である限り

どうということはない。

いうなれば、君達は、

体験でない体験それ自身を

再体験しようとしている。

君達こそ

あらゆる素晴らしい体験と

あらゆる醜悪な体験との

演じ手であると同時に

それ以上のものであるにも

かかわらずだ。

この文章がなぜか気に入っていて、よく読み返す。


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